ゲート師匠の講話から(2)
私にとってのツアー初日(月曜日)、ゲート師匠は午前、午後、夜の3回も講話をして下さいました。
私はお昼に名古屋に着いたので、午前中の講話は聴くことができませんでしたが、午後の部、夜の部、2回もお話を聞くことができてラッキーでした!
19日夜の部は座談会という形でしたので、参加者の方が数名質問されていました。どれも面白い内容でしたが、私が深いお話だなあ~と感じた部分を抜き出しておきます。
(19日夜の座談会から)
Q. 午前中の講話で、(私たちは)瞬間瞬間あらゆる法則、真理を作り出すことができる存在である、とおっしゃったと思うのですが、瞬間瞬間あるようにできるという事は全部相対的な真理なわけで、その場合、それは相対的で、何でもありということになり、あってもなくても全部同じ、何も知らなくてもあまり変わらないのかなと思ったのです。だから(私たちは)不確定性の中にずっと存在するという事になると思うのですが……それを確認したいと思って聞いてみました。
A. あなたがそのように聞き、そのように思ったのであれば、それこそがあなたの真理です。
真理というのは何があっても一つのものだというのではなく、外にあるものではなく、私自身が真理だからです。
なぜ私自身が真理かというと、私がそう信じれば、その信じる心が真理になるのです。私の信じる気持ちが真理だから、私が信じる心を作り出し、それは真理を作り出すのだから、自らが真理で在らざるを得ないのです。
一人一人の皆さんには、すべて自由意志というものが与えられています。これは神からの贈り物です。
神の正体は何か?
神のアイデンティティとは何か?
自由意志なのです。
その自由意思を私たちはそのまま受け継ぎました。非常に公平な状態で。
誰かに対しては囚われを与え、誰かに関しては自由を与えるという事ではなく、すべての一人一人に自由意思を全く同じに与えてくださいました。神の本性というのはその自由意思を自らの子供たちにそのまま与えてくれたのです。だから、神の子である私たちも一人一人が自由意思を持っているのです。
私が信じ選択したもの、それが全てなのです。それが真理なのです。
なぜなら、この世で最も真なる真理とは、「自由意思」だからです。
また、真なる私の正体も「自由意思」だからです。
比較するのも自分だし、劣等感を感じているのも自分だし、優越感を感じているのも自分です。そのすべてを造っているのが、まさに私なのです。すべての事に関して私が自らの手で選んでいるのです。私は囚われも選ぶことができます。私が存在を選択すれば存在することになるのです。私が存在を望まないのであれば、私は存在しないという事も出来ます。
自由意思というのは「存在以前の存在」さえも選択できる「それ」なのです。それこそが私たちの真なるアイデンティティなのです。少し難しいかな?
Q. 難しいというか、自由過ぎてうまく使えないのです。師匠は良く、「なぜそんな不便なことを考えるのですか?」とか「なぜもっと楽にしないのですか?」と言われますが、自由過ぎてうまく使えないのです。
A. たとえ話で説明しましょう。
(中略…ご自身の 中学生時代のある出来事による幽体離脱体験のお話をされました。それがきっかけとなり、それ以後、自由に体から抜け出せるようになったそうです。)
……さあ、ここでもう一つ困ったことが起こったのですが、私はそのように肉体を出て、生活している私という個体があるといつも思っていたのです。抜け出ているのは霊魂だと思っていたのです。本を読んだら「幽体」という言葉を使っていたから、私は「幽体」を使って旅行しているのだと思っていました。
ところが当惑したことが、ある日起こったのです。
その日も「幽体」でポコッと出てみたのですが、いつもと感覚が違っていたのです。見てみると「幽体」がなくなっていたのです。
「あっ!霊魂がなくなっちゃった!」
すごく混乱したのです。
「私はどこにいるんだ?」
私はその前には明らかに霊魂という形をもって、幽体というものが明らかにあったはずなのに、「私」といえるものが無くなっちゃったんです。
結構な時間探しました。「私」がなくなっちゃったんです。
しかし、この考えはどこから出てくるんだろう。自分自身がなくなってしまったがためにすごく混乱しました。
私は明らかに混乱していると思っているのに、
混乱している自分を探してみたらいない。
私はすごく当惑しているのに、
その当惑している自分がいない。
これはいったいどうしたことだ?
私はどこにあるんだ?
どうして私は自分がいないにもかかわらず存在しているんだろう?
ここからまた私の別の勉強が始まったのです。
そして…話すと長くなるので真ん中は省略しますが…
結論は、私は私としてあることもできるし、私を無くすこともできる。すべての苦痛の原因は自分じゃないですか、私でしょ?
その苦痛に満ちている自分はいなくなる。
「自我」というもの、私が誰であるかというものがあったとしても、「私」は依然として存在する。
だから、分かったんです。
わ~、「私」ってすごいなあ。
「私」が私を創造しているんだ。
「私」は作り出す「それ」であり、作り出されたそれではないんだ。
「私」が神であることに間違いないんだ。
私がいないのに、私が誰の影響を受けるというのですか?
神でさえ私に影響を与えることはできません、
影響を与えられる私がいないのに、どうして影響を与えられることがありますか?
ですから、神を探して歩く必要もありませんでした。その時全てが理解されたんです。仏さまがおっしゃった法身、イエスさまがおっしゃった「神の王国」神の概念、それを私自らが体得したのです。
これをだれが壊すことができるでしょう。壊される私がいないのに。
大切なのは、そういう認識を得て私が何を感じたかというと、
これは私だけの経験ではなく、すべての人びとに、すべての人も全く同じ経験ができるんだ、私の本性は神であるといった瞬間、他の人びとの本性も神なのだという事をその時に悟ったのです。
今皆さんは、皆さんと私が違っていると考えています。
「わたし」「あなた」
しかしそれ以前に遡れば、私を作り出したのも「私」であり、あなたを作り出したのも「私」なのです。
しかし依然として皆さんはこのような話を「私が」聞いているがために、まだ、自分・私として聞いているがために、まだ依然として皆さんは混乱するしかありません。混乱する「自分」があるがために。
ただ面白いのは、混乱を感じる自分がいなくなる時が来ます。皆さんにも。いなくても全然関係なしです。私の本来の姿は、無くなったり、また生まれるというものではありません。選択するものなのです。創造を選択し、存在も選択し、消滅も選択し……
みなさん、海があります。海の表面には水の泡ができます。その水の泡が
「私は作り出された。」
「君も作り出されたんだね。」
それらが集まれば
「私たち創造されたんだね。」
「私が先に作られたね。」
「あなたはちょっと後から作られたね。」
「あなたは近いね。」
「あの子とはずいぶん離れているな。」
時間、空間の概念はどこから出たのか?
その水の泡の考えから出たのです。
あなた、わたし、あっちの水の泡、こっちの水の泡、そういったものは水の泡の観点から出てきたものなのです。しかし、それぞれの水の泡はどこから生まれたものでしょう?
海から生まれたのです。
皆さんは、一つの水の泡の経験を今なさっているのです。その水の泡こそが自分だと思っています。ほかの水の泡も、その水の泡の経験をしているだけなのです。これが私たちの現住所、実際の姿なのです。
しかし真実は、私たちは海であるという事なのです。
しかし、このような真実を皆さんが水の泡の状態で聞いているから、ずっと引き続きわたしはわたし、あなたはあなた。しかし、結局皆さんの意識は海に入っていくようにできています。
数千数万数億、種類、差異、変化、それらはすべて水の泡が作った概念です。
それらは真実の概念ではなく水の泡が作り出した、一時的な現象に過ぎないのです。
そこでお釈迦様は、この物質界というのは、夢の中の水の泡のようなものである、
「如夢幻泡影(にょむげんほうよう)」
と言ったのです。金剛教にそういう話が出てまいります。
皆さんは今この瞬間、仏教の精粋を学ばれたのです。考えのレベルであったとしても真実は何かというものを今、分かったのです。
結果的に海の意識は、皆さんがそこに帰ろうという意志さえあれば、海に帰るぞという意志さえあれば、そこに戻っていかれるのです。
しかし常に皆さんには選択権が与えられているので、
「私は水の泡の経験がもっとやりたいわ」
「私は別の水の泡の経験をしてみたいの」
「私はずっと南の方の経験を!」
「私は太平洋!」
「私は大西洋!」
「私はインド洋!」
「こういう経験がしてみたい。ここで水の泡の生活をしたい。」
そんな経験を望んだがために、今、皆さんは日本の水の泡の状態でここに存在しているのです。
(以上)