「問題」とは
ワプニク先生の解説を訳していたら、
朝から少し気にかかっていた事の「答え」⁉️
と思うような文があり、
自分的に驚きと感動があったので
備忘録としてここに書き残しておきます。
読んでくださる方には
うまく説明出来ないし
意味わからなくてごめんなさい💦
「奇跡のコース」ワークブック
レッスン77の解説より…
これまで何度も見てきたように、「問題」とは、私たちが自分は問題を知っていると考えていること、そして、それゆえにどう質問すればよいかを知っていると考えている私たちの「傲慢さ」であり、質問には常に次のようなバージョンがあります。
「私はどのように行動すべきか?」
「何を言うべきか?」
「私の問題に対する答えは何か?」
「どこに引っ越すべきか?」
「どのような仕事に就くべきか?」
「どんな人間関係を築けばいいのか?」
これらはすべて、レッスン79とレッスン80の焦点である「分離」という「真の問題」に気づかないようにするための「擬似的な質問」にすぎません。
実際のところ、私たちは何かに対して求めているのではありません。私たちが求めるのは、自分が間違えたことに気づき、正しい選択ができるよう聖霊に助けてもらう事なのです。これが、イエスがテキストの最初の方で「意味のある唯一の祈りは赦しを求めることであり、赦されている人はすべてを持っているからである」(T-3.V.6:3)と言った意味です。私たちの真の祈りとは、自分の中にすでに存在する「奇跡」や「修正」を受け入れることです。そのためには、心を乱すような問題から目を離さなければなりません。問題は外側にあるものではなく、自分の中にある誤った選択であることを理解できるようにするために、自分の身体や他の人の中にある問題から目を離さなければなりません。繰り返しになりますが、この修正こそが「奇跡の本質」であり、それを求めることが私たちにできる唯一の真の要求であり、その答えは次の箇所で説明されているように、聖なる瞬間の中にあります。
したがって、答えが妨げられている世界でいかなる問題も解決しようとはしないでください。そうではなく、あなたのために愛をこめて答えが保たれている唯一の場所に問題を持っていくべきです。そこにはあなたの問題を解決してくれる答えがあります。なぜなら、答えは問題から離れて別になっているので、何に答えることができるか、何が問題なのかが分かるからです。この世界においては、答えは最初の質問には答えないままに別な質問を生じさせるだけです。神聖な瞬間においては、あなたは質問を答えのところに持って行くことができ、あなたのために用意された答えを受け取ることができるのです。 (T-27.IV.7)
(中略) ……これまで私たちは、自分自身に頼り、またはイエス、聖霊、神と呼ばれる自分自身の投影されたイメージに頼っていました。つまり、自分のマインドを変えることはせずに、自分の痛みや苦しみを取り除いてくれる魔法のような人物に頼っていたのです。このような魔法のような救世主への嘆願は、本当の癒しではなく、魔法への祈りだったのです。イエスは今や、私たちが問題が何であるかを自分自身に伝えているのではないと仮定しており、だからこそ、私たちは、自分が作ったイエスのイメージに問題解決を求めるのではないのです。その代わりに、問題の源である、自身で独立・自立すると決めてしまっている事や、「幸せであることよりも正しくあろう」と決めてしまっているマインドに私たちは向かうのです。イエスや聖霊に真に助けを求めることとは、「自分の力ではもう限界です」と言うことであり、奇跡が再び私たちのものになることを確実にするのです。ヘレンへの特別なメッセージでは、まさにこの問題が取り上げられています。イエスは、答えを必要とする問題を定義しようとしないように、筆記者(ヘレン)に注意を促しました。
具体的な質問はすべて、数多くの前提を伴っており、それが必ず答えを限定することになる。そうした質問は、実際のところ、どういう類の答えなら受け入れ可能とするかを定める決断に他ならない。言葉の目的は限定することであり、限定することによって、広大な領域にわたる体験を扱いやすいものにすることである。しかし、それはあなたにとって扱いやすい、という意味である。(『天国から離れて~ヘレンシャックマンと「奇跡講座」誕生の物語』p531)
ポイントは、「すべての問題は同じであること」を認識することにあります。したがって、「奇跡」を求めること、すなわち自分自身に「奇跡」を選択するように求めることが、唯一意味のあることなのです。「奇跡」だけが「真実」を可能にし、「分離を制限なく修正すること」を可能にします。
Journey Through the Workbook of A Course in Miracles #2 (p82~83)
ありがとうございます