自分の弱さを看過ごす
昨夜は、合唱団の練習があり、帰宅が遅くなりました。
「さあ、ブログを書くぞ」
と思い、書く準備も整っていたのに
何故か、書けない…
テーマが定まらない…
なんでも良いから、簡単に、短く書いもいいんじゃない?
とも、思ったのですが、
それでも、何故か進まない。
時間ばかりが経って、今日になって…
「今日は書くのやめよー」
と諦めました。
「今年は毎日書くと決めたのにな」
「短文も書けないの?」
「人に読んでもらう事を意識し過ぎなんじゃない?」
「書く能力ないよね~」
と言いたい放題のエゴの声を聞いていたら、
私の心の半分は
「なんだかなぁ⤵︎」
という気分になりました。
でも、もう半分の心では
コースの学習しているんだから、
不甲斐ない自分も
赦す!赦す!赦す!赦す!赦す!
と頑張ってました😄
そうこうするうちに、
まあ、いっか。
寝よ。
で、朝起きて、
「昨日は、なんだかなぁ⤵︎の気分だったけど、そんな気分を晴らすアドバイスが欲しい」
と思ったら、本棚にあったケネス・ワプニクさんの本が目に入りました。
「にぃに、ピッタリのメッセージをお願いします!」
と、適当なページを開いたら、
こんな事が書いてあって…びっくりでした‼️
(奇跡のコース ワークブックのレッスン95からの引用でした。この文章の前には、一時間に5分の課題練習の時間を取るようにとの記述があります。)
…しかしこのスケジュールを守れなかった時でも、
それを口実にして、
なるたけ早く練習に戻ることをやめてしまってはいけない。
おそらく、もはや要求されたことに答えられなかったと言う理由で、
その日の練習は失敗したと見なしたい誘惑に駆られるだろう。
だがこれも、ただその正体を認識することが必要なだけである。
すなわち、それは
自分の誤りが正されることに対する拒否反応であり、
再び練習に取り組みたくはないと言う気持ちである。
あなたの間違いによって、
聖霊の指導に遅延が生じる事は無い。
聖霊を妨げるのは、
誤りを放棄したくないと言うあなたの気持ちだけである。
したがって、特にこの1~2週間は、私たちの勤勉さが減退したり、毎日の主題概念の練習のための指示に従うことに失敗したりしても
そういう自分を喜んで赦そうと決めておきなさい。
このように
弱さに寛容になること
によって、
私たちは弱さを看過できるようになり、
私たちの学びを遅らせる力を弱さに与えずに済む。
もし私たちが、
弱さに、学びを遅らせる力を与えるなら、
私たちはそれを強さとみなしていることになり、
強さと弱さを混同していることになる。
あなたがこのコースの履修課題をうまくこなすことができない時、
あなたは単に間違いを犯しただけである。
これには訂正が必要であり、必要なのはそれだけである。
間違いが存続するままにしておくことは、
最初の間違いに基づいてそれを補強し、
さらなる間違いを犯すことである。
こうしたプロセスを、
私たちは放棄しなければならない。
それは、あなたが
真理に対抗して幻想を防衛しようとする
もう一つのやり方に他ならないからである。
[ワークブック レッスン95より]
ケネス・ワプニク『赦しのカリキュラム』p255
(以上)
ワークブックの課題を指示された通りに出来なかった時の心の持ちようが書かれていましたが、自分でやると決めた通りにブログを更新できなかった私に
大丈夫だ!
また今日書けばいいじゃない!
と言ってくれているみたいでした😊
要するに、
失敗しても自分を喜んで赦す
(書けない自分を赦す!)
自分の弱さに寛容になる事で
弱さを看過出来るようになる
間違いは訂正すれば良い
(今日書けなければ、明日書こう!)
間違いが存続するままにはしない
(書けないからもう書かない!はエゴの思うツボ!)
さすが、にぃに。
アドバイスが的確でした😊♫
今日もスタバに行ってみました♫
アイスティーのパッションを初めて飲んでみましたが、とっても私好みのお味で美味でした😊
次回もまたこれだなぁ💖
パッションを飲みながら、ヨハネ・パッション(ヨハネ受難曲)のお勉強をしました😄