ゲート師匠の講話から(6)
21日(水)の夜の懇談会の前に、会員の方による「前世の見方講座」と「スプーン曲げ講座」があり、私は「前世」の方だけ参加してみました。
誘導瞑想で前世を見ていくのですが、はっきりとは見えなかったものの、ぼんやりとしたイメージを感じることはできました。
何だか山深いところで、修験道の行者のような姿で歩いている私。頑張っている様子なのだけれど、なんだか一人寂しそう。
「あなたはどんな様子で亡くなりましたか?その人生で何を学びましたか?」
と問われ、浮かんできたイメージは、
「何もかも捨てて修行したのに、何も得られなかった」
という無念な思いでした。
もう残念で残念で…という気持ちがあふれてきて、涙まで出てきました。
あー、だからまた生まれてきたんだな。私。
これはもう、今世で絶対に悟りたいものです!
また、私は参加しなかった「スプーン曲げ講座」は大変盛り上がったようで、皆さん、ぐにゃりと曲がったスプーンを手に満面の笑みでお部屋から出てきました。
私も次回は参加しよう!と思った次第でした。
さて、ゲート師匠は皆さんが曲げたスプーンを見て、大喜びされていました。
そして、以下のようにお話しされました。
(以下一部書き起こし)
皆さん、このような(スプーン曲げのような)小さなことから始めて、私たちは「できるんだ」という信念を持つことから始めて、思考を転換することがとても大事なんです。このように金属にも影響を与えることができるんですから、どうしてこの柔らかい私の体に影響を与えられないはずがあるでしょうか?
皆さんがもともと持っている手は、神の手であり、薬の手です。
これが体を触れば治療が全部できるようになっている。
ですから、まず最初に私をとても尊いと思わなければならないんです。
私の事をとても尊く思ったその時からが、始まりなんです。
(中略)皆さんと同じような人を探してみてください。日本に、地球上に、宇宙に、どこに行っても私のような人はたった一人なんです。その一つだけとってみても、どれほど私自身には存在価値があるでしょう。
この宇宙に、この地球人類だけでも70億で、太陽系、銀河系、あの遠い宇宙の果てまで、数限りなく数億の生命体がいます。数十億、数千億の生命体が生きているのに、その中でも、私のような存在はたった一つしか存在しないんだ。
この宇宙全体には、私のような人間は私一人しかいない。皆さん喜悦感を感じませんか?どうして喜悦感を感じられずにいるんでしょうか?そしてどれほど恍惚として感謝できることでしょう。たった私一人しかいないのに。あまりにも喜悦感に満ち溢れるじゃないですか!その事だけ見ても、私がどれほど尊い存在でしょうか?
(中略)
なんであろうとも、たった一つというのは希少価値がものすごいんだよ。
だからほかの事を見る必要がなぜあるんだろう。神を見る必要がないし、私一人で十分なんだ。
それ一つだけを皆さんが完全に受け入れたら、ここで一番大きな悟りが起こり得るんだ。その一つだけでも、この事実一つだけでも、ものすごい悟りが起こり得るんだ。
何か難しい悟りだろうか?この宇宙に私のような存在は私一人しかいない。
それが心に押し迫った時、それを受け入れたとき、それを受け入れざるを得ないんだよ。明々白々な事実だよ。その恍惚感は言葉では表現できない、何にもうらやましいことがないんだ。私は一人だ、私のような人は一人しかいない。この祝福、この恍惚感。
どうして皆さんはこうしたことを感じずに生きているんだ!
(人は)誰かを見ながら、あれを持てたらいいな、誰かがうらやましいな、と言う……
私がいつも皆さんに言っていることは、私は神さえもうらやましくはない。私は私一人しかいないんだ。私はその一つだけでも、私の存在の尊さは分かったよ。
それで私は他の何にも気を遣わず、私自身についての自覚をしよう。私が目覚めて行くことだけに集中しよう。宇宙、神様、イエス様、仏様、見る必要がないんだよ。
私はこの一つしかない尊い事だけを考えようと、私にだけ集中し、私にだけ関心をもって、私のために生きたんです。
私の体が何かを食べたいというのなら、7.8時間かけて車を走らせても、食べさせて上げるようにしました。冷麺を食べさせてあげました(笑)。どれほど尊い存在だから、冷麺を差し上げないといけないじゃないですか。
私自身にそのようにして、私の尊さ、私のために、私に対する愛、私の存在価値が分かったんです。
その時から私の全ての感覚器官がよみがえってきました。
すべての細胞と今対話をしているような気持ちです。恍惚感に満ちますよ。その一つだけを悟っただけなのに恍惚感に満ち溢れました。
この真実は私にだけあるんだろうか?
いえ、皆さん一人一人にあります。それが真実です。どれほど幸福感に満ちた祝福でしょう。
(書き起こし以上)
自分を大事にすること、自分を愛すること。
基本はここから!ですね。
満ち溢れた自分になっていく!
修行者の前世では、私は私を愛することの大切さには気づいていなかったようなので、今世は大事にしてあげようと思います。
もっと幸せにしてあげよう。
そして幸せな夢から目覚めよう!
ゲート師匠の講話から(5)
21日(水)午前の講話では、色々な興味深いお話が次々と出てきました。
例えば…
〇仏教が菜食主義となった本当の理由
〇「相対性理論」の相対性原理を作用させているもの
〇空中浮遊について
〇放射線について
〇人の声の振動が水の分子構造を変える?!
面白い話がポンポンと飛び出すので、会場は始終、笑い声が響き、リラックスした雰囲気に包まれていました。
それでも最後の師匠の話が、多岐にわたったお話を、びしっと一つにまとめて下さいました。
(以下一部書き起こし)
…人間が潜在的に持っている能力は無限なのです。
私たちは何でもないようにいろんな考えを起こし、色んな事を言ってしまうが、私たち人間には無窮、無限の能力が潜在的にあるがために、自覚を通じて自分自身を発見し、成長させ、自らの能力を取り戻すべきなのです。
私の、自分の感覚を取り戻すべきです。
こういった事がとても重要なのです。
また何かを学ぶときには、すべての真理に対して謙遜であるべきです。
考えはいつでも変えることができます。
私が知っていることにあまりにも固執するなら、知っているというその枠にとらわれてしまうのです。
学びというのは限りないもの。
ですから
「常にオープンハート、開かれた心を持って頑張ろう。自慢することなく、傲慢でもなく、「私のものである」という主張を捨てて、自らの中で覚醒が起こるときまで、覚醒が一つ起こればまた別の覚醒のために、ずっと自覚し続けよう。」
こういう精神がとても必要なのです。
本当にしっかりここで勉強するぞと思えば、心の出家。
私が持っているものをすべて捨てるというのではなく、そこで留まることなく、もっと進んでいこうと言っているんです。
既存の自分の判断や価値観を無視しなさいと言っているのではありません。そこからもっと前に進もうと言っているのです。そしてもっと前進するべきだと言っているのです。
皆さん勉強してみれば何かが分かったような気持ちになって、人よりもずいぶん進んでいると思い込み、それを知らない人間を自分よりも劣ったものとみて、はなはだしくは、「私は全部分かった。」という風に思い込みますが、そういう時こそ、私自身を奮い立たせて、もっと前に進もうとするのです。
もっと、もっと大きく自分を開いて行こう。もっと悟っていこう、分かっていこう、目覚めていこう。全ての事を知った、分かったと思ったとしても、もっと素晴らしい、もっとすごい目覚め、悟りのために、留まることなく前進しよう。
そうしていけば皆さん自らが、完全なる意識の状態に入るようになっているのです。
その時には、「私は到達した。あの人たちはまだ到達できていない」絶対にそんな考えは起こりません。区分、違い、相対的なものはすべて無くなります。
それは何故か。
私の中にすべてそれがあるからです。
全てのものは私の一部分であるからです。
その一部分でさえも否定する必要がないがために、部分は部分としてとても貴重であると分かるがために、それをすべて認めて尊重することができるようになるのです。
これは私(ゲート師匠)が言ったからとか、(ここで)言葉で聞いたからではなく、皆さんが意識成長されたあかつきには、至極自然にそういう意識状態を持つようになるのです。
(書き起こし以上)
すでにそうである大きな私に、いつでも気づいていたいです。
天国の風景
昨日、JRの駅構内で素敵なポスターを見ました。
これこれ!長野県の林の中でヨガをする吉永小百合さん。
「森林セラピー」というのがあるそうです。何とも気持ちがよさそうです。
私も、林の中を歩くのが好きなので、今日は「森林セラピー」気分で滝野すずらん公園に行ってみました。お花もたくさん咲いているはず!
色とりどりのお花たちに迎えられました。
そして、早速森林セラピーです!(ただ散策するだけですが)
曇りのお天気でしたが、時折雲の切れ間から日の光が差し、林の中も明るくなります。
公園の敷地はとても広いので、林の中を歩いていると、自分が一体どこにいるのか分からなくなるので、初めのうちは、時々スマホで位置確認したりしていたのですが、それも面倒になってきて、思いのままに歩くことにしました。
分かれ道があると、なんとなく「こっちに行ってみよう!」
小鳥の鳴き声が近いと、「こっちだ!」と近づいてみたり、気の向くまま、何も考えず…
それでも、どこに向かっていても、きれいな花や鳥や昆虫を見つけたりするので、ただ歩くだけでワクワクです。
ヒマラヤの青いケシ「メコノプシス」!
小さなくわがた!
名前が分からないけれど、とても小さくてみずみずしいピンクの花。
こっちだよ。こっちだよ。と呼ばれる気がして草を分けて降りていくと…
ルピナスとマーガレットの入り混じった広い広い花畑が目の前に現れました。
天国はこんな場所だろうか?と思える風景に感動しました。
林から出て美しく整備された場所に出ると、またまた、まさに天国の風景!
こんな景色を見るたびに、私は本当はもう死んでいて、自分が死んだことに気付いていないのかもしれない……なんて思う事がよくあります。
たまたまその時に友人からラインに連絡が入ったので、
「私は今天国にいます」と写真を送ると、
「ほんとに天国だぁ~。なんどでも生まれ変わってるんだ、YUMIKOさん。素敵だね~」
というお返事が。
・・・そうなのかも知れない!
「死」っていうのは、本人の意識の状態から見たら、ただお隣のお部屋へ移っただけ、ただ場の移動みたいなものだから、生きているうちにだって、意識が大きく変われば、肉体をわざわざ殺さなくても、何度でも生まれ変われるのかもしれない!
と思いました。
何度でも天国を味わって、何度でも生き返って、楽しもう!と思える気づきでした。
ゲート師匠の講話から(4)
20日(火)の夜の座談会。
前半の座談会は、個人的な人間関係のお話がメインでした。
後半は、子どもたちにお話してあげても理解できるような解かりやすいお話で、当然の事なのに私たちが普段忘れている大事なことでした。
(座談会の記録一部書き起こし)
(前略)……みんな、一度全身のレントゲン写真を撮ってごらん。みんな普段心が大事だ、気持ちが大事だといつも言ってるだろ?でも私の姿、私の中の姿、自分たちの中の姿も大事なんじゃないか。
レントゲンを撮ると骸骨が出てくる。人がみんなといるとき、一人ひとり別の性格、別の姿、別の個性を持っているように見えるのだけれど、だけど、レントゲンを撮って出てくる骸骨の姿は皆同じです。骸骨を見て、「彼、美男子だわ」「彼女はブスだ!」なんて誰が言いますか?
全部、骸骨は骸骨に過ぎないんだよ。
では、違いはいったいどこから出てくるんだろう。
皮、面の皮一枚。その「面の皮一枚」ですよ。ただそこの違いだけなんだ。
だけど、その皮一枚、その外面(そとづら)だけでどれほど多くの人たちがストレスを受けていることだろう。
だから私たちの本当の姿、もっと真実の姿を、内部の姿を見てみよう。私たちの真実の姿は単なる骨に過ぎない。その骨に、ただ肉がペタペタくっついているだけだ。
じゃあこの骨が私の本当の姿なのか?そうではない。
もっと深く見れば、骨は全て光に代わる。その光の中に、数多くの波動がある。
じゃあ私たちのストレスはいったいどこからくるものなのか、波動の世界にストレスがあるだろうか、光の姿にストレスがあるだろうか、骸骨の姿にストレスはあるのだろうか?違う。ただ、皮一枚、この外面(そとづら)だけ、そこからすべてストレスが出てくるのではないか?
ですから今私たちが感じているストレスの全ては、私たちの本来の姿から出てきたものではなく、ただ外面(そとづら)一枚の世界に存在しているものなのだ。
そういう話を韓国の弟子たちにしたのですが、後でわかったことですが、仏教に、「白骨観想法」という修練の方法があるんだそうです。
「私は骸骨に過ぎない。他のものは全部外面(そとづら)である。」
そういうことを通して自分の本来の姿を分かっていこうとする瞑想法があるそうです。それは一般の仏教にではなく密教に伝わっているものだそうです。密教ですね。
それはね、仏教の秘法というよりは、とても常識的な話だと思います。
私たちは、本当に私たちが面の皮一枚からくる色々なストレスを受けています。自分の外見もそうだし、姿形、環境、そんなものはみんな面の皮一枚とリンクしている世界ではありませんか。
全員が骸骨の姿だとしたらどうでしょう、皆さん。姿形が醜いとしても、醜いという事さえ分からないでしょう。
醜いというのは相対的な概念です。何か美しいものがあるから醜く見えてくるのです。
だけど全員が、骸骨の姿であるとすれば、誰がそこから美しさを生み出すことができ、また、誰がそこから醜さを生み出すことができるでしょう。全ての相対的な概念、美しい、醜い、きれいだ、憎らしい、こういうことを見ると、すべて比較から来る。何らかの相手があって、それと比較する、そういうところからくる概念ではありませんか。そのためにどれほど多くの人たちがストレスを感じているでしょう。本当に面の皮一枚の事、その部分からくることに対して。
しかし、実際の私たちの本来の姿は、この中の姿は骸骨なんです。もっと深く入れば、単なる光に他なりません。もっと詳しく見れば、ウェーブ、波動、振動です。
ですから私たちの実態というものは、美しい、醜い、汚い、きれいだ、こんなものとは関係なく、純粋なエネルギーが私たちの本来の姿であり、私たちの真の存在の姿であるのです。
だから、自らの実態に対して自覚を進めれば、そのような外面、そんな皮一枚からくる、表面的で、そんなようなストレスから皆さんは自由になれるのではないか?
ですから、自分の本来の姿、私の真の実態、それは純粋なエネルギーなのです。あなたも私もなく、よくできている、できていない、そんなものはありません、汚い、醜いもない。賢い、愚かだという事もないのです。皆さん。
そこ深く深く入っていけば、その面の皮一枚がなくなれば、そこには完璧な状況、全員が純粋なエネルギーとしてなっているのです。そこには何らかの差別も区別も何もありません。それが私たちの真の姿なのです。
そのように自分の真の姿を自覚するようになれば、私たちが持っている多くの考えをどれほどたくさん変えることができるでしょう。(後略)
(書き起こし以上)
この後は、骸骨のバッヂを作っていつも着けてたらいいんじゃないかとか、レントゲン写真を鏡の代わりに壁にかけよう!などとジョークを飛ばしていた師匠でしたw
師匠の話を聞いていて、私も思い出したことがありました。
私は何故か、外国の方に道を尋ねられたリ、話しかけられたりすることがよくあるのですが、いつもドギマギしてしまって、うまく受け答えができず残念な思いをするんです。けれど、ある場所では、私のつたない英語でも外国の方と深いお話が出来たことが2度ほどあって……
その場所とは、どちらも……
温泉!しかもどちらも露天風呂でした!
お互いに素っ裸でリラックスした状態だったからでしょうか、旅のお話、これまでに訪れた国のお話、近くの観光スポットの事……のぼせてしまうほど、楽しく語り合えたのでした。
裸の付き合い最高!温泉最高!日本人でよかった !!
まあ、裸も比較してしまいがちですから、やはり骨まで、波動まで、エネルギーまで単純化した方が、互いに余計なエゴもなくなって交流を純粋に楽しめますよね(^^♪
この子達にはどんな世界が見えているのかな。
ゲート師匠の講話から(3)
火曜日の朝、気持ちの良いお散歩から、そのまま会場のホテルへと向かいました。
この日の講話では般若心経のお話が印象的でした。
般若心経の智慧をもっと深く理解したいと思いました。
(以下講話から一部書き起こし)
……私たちが今このように存在しているというのは、存在していないことが変化した姿だ、そういう風に言えます。難しいでしょ、概念が。
その言葉はどういう意味かというと、仏教では般若心経で「色即是空、空即是色」
「物質」と「物質のない事」に違いはないのだということです。
科学者たちは言うでしょう? 物質を構成している最小の物質というのは、実は無いんだと。物質を構成している一番の根本的な物質を探してみようと思ったら、分子、原子、素粒子までは出てくるが、素粒子を成しているそれは何だろうと探してみたら、物質ではなくて「波動」だというのです。
皆さんご存知のように波動というのは、物質ではないでしょ? ただの振動、ウェーブじゃないですか。
ですから物質をなしている究極的な粒子というのは無いのです。
簡単に考えるならばエネルギーという事です。
ですからエネルギーが物質をなしている究極的な粒子という訳ですから、
エネルギーが変化して物質を成しているという訳です。
物質をなしている究極的な粒子というものは無いというのです。
皆さん、レントゲン写真を撮ってみると、皆さんの肉は映らなくて、骸骨が出てくるでしょ?
でも、X線を通り越して放射線で写すと、人の骨も見えずに、波動だけ、ウェーブだけが見えるんです。
もちろんその中には光というものが見えます。光の中に細かい振動、ウェーブが見えるんです。
だから皆さん、ここに物質、肉体があるように見えますが、実際には、映像なんですよ。立体映像。もともとはね。
でも、映像だったら物質はそれを通り抜けられないといけないじゃないか。ずっと続けてエネルギーが、凝り固まって、波動がもっとたくさんになったものだから、これが物質のように感じられるんですよ。
いわゆる、電気に感電してしまったら……電気は物質ではないでしょ?
電気に感電したら、ジリジリと衝撃が来るでしょ。物質ではないのに、皆さんには物質的な衝撃として感じられるでしょ。
例えば、スタンガンを使うとジリジリと感電するじゃないですか、映画やドラマに出てくるでしょ?
だから、それは物質ではないのにもかかわらず、それに当たったら物質に殴られたような、そんな衝撃が来るじゃないですか。
私が何を言いたいのかというと、
私たちが確固として感じるこの感覚、この扇子、このマイク、皆さんとの握手、これは実際には、このような電気的な衝撃と同じなんですよ。物質と物質がこつんと当たったように見え、感じられますが、厳密に言ったら波動同士、ウェーブ同士がぶつかったという事なんですよ。
感覚というものはそういったものなんですよ。
唯の電気的なぶつかりなんですよ。衝撃。
だから極端に言ったら、私たちは物質として存在しているのではなくて、唯の「波動」なんですよ。「波動」。
私は、何か物質の肉体だと思っていたのに,唯の波動に過ぎなかった。
私たちの本当の正体は、物質ではなくて、唯の波動だ、エネルギーだ。
そうしたら皆さんは取り立ててストレスを受ける必要はないでしょ?でもみなさん、お金の波動は好きじゃないですか!
とにかく、食べること、聞くこと、すべての感覚は、唯の波動、振動に過ぎないという事です。
日本のスピリチュアル雑誌を見ると、波動治療、振動治療という言葉が多いでしょ。それは理屈に合った話なのです。もともと私たちの体はそういう風にできている。
それで、みなさん、時間のある時に、仏教の般若心経について調べて、読んでみてください。見たことはあるでしょう?そこには、日本語の解説もあるはずです。解説を読む必要はありません。今日、私の話を聞いたので、般若心経をざっとご覧になったら、新しい理解が、ぱっと入ってきます。私はそれを諳んじています。一説一説が真理です。
3千年も前のお釈迦様は、今になって科学者がようやく発見しているその内容をどうしてわかったんでしょう。3千年前と言ったらどれほどの原始時代でしょうか?それにもかかわらず、3千年もたって今になってから、ようやく科学者が発見しようとしている事を、その方は、とても科学的にそこに書いています。
ずらずら・・・・・と書かれているその内容、今なら皆さんにも理解できることでしょう。だから、今日必ず皆さん、思い出したそのついでに般若心経を見てみてください。はっきりとくっきりと理解できることでしょう。
文字通り、般若心経は、心のお経という事です。英語ではハートストラー、ストラーとはお経です。仏教には8万ほどお経があるといわれますが、その中の心臓に当たるお経だ。だから、仏教の真髄だ。だから皆さんは、今日は仏教の真髄を受け取る機会に出会ったのです。わずか3、40分でね。
私たちは物質を、決して変わらない固定したものと考えているが、それは実際、物質ではない。とても活性化された波動だ。そしてそれは真実です。
そうしたら、いくらでも、それに変化を与えることができる。
波動や振動はいくらでも変化させることができるから。
それで、新しい心を持って自分の考えを変えれば、その考えの波動が変わるので、それが、ほかの波動に影響を与えるので、十分に物質に影響を与えることができるんだ。
だから、結局は考えが変わり、心が変われば、私の体が変わるんだ。
そのような理論が成立するんですよ。だから物質はとても堅固だ、固定している、という固定観念から抜け出すことが出来るんです。これは実は、科学者たちがほとんど分かっている内容です。
(講話ここまで)
本当は波動でありエネルギーの私たち!ますます自由になれそうです!
瞬間瞬間受け取っているギフト!
名古屋ツアー2日目の火曜日、薄曇りのお天気で、気温もあまり高くなく、過ごしやすい朝となりました。
11時からの講話まで時間があったので、ホテル近くの白川公園までお散歩しました。
都会のど真ん中だというのにとても気持ちの良い公園です😊♫
シュールなウサギを発見!
世界一のプラネタリウムがある科学館を眺め、
時間まで美しく静かな美術館で過す事にしました。
モディリアーニの「おさげ髪の少女」をみて、ホンモノだァ!と感激し、荒川修作さんという方の「忘れるということ」という作品に引用されていたイギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームの著書『人間本性論』の一節に惹きつけられたり…(よく知らないのに😥)
係のお姉さんに参考資料の紙を頂いたので、その一節をここに書いておく事にします。
「一見して明らかなように、記憶の観念は、想像の観念に比べてはるかに生き生きとして力強い。また記憶の機能が対象を描き出す色合いは、想像の機能が描く色合いよりも、判明である。私たちは、過去の出来事を思い出す時、記憶の観念は説得力ある方法で心の中に満ちてくる。しかるに、想像力においては、知覚は弱く活気がなく、心の中にしっかりと一定の形で保たれるためには、かなりの時間と困難さが要求されるのである。ゆえに、記憶と創造の観念の間には、大きな相違があるのだが、それについては後に十分な吟味をすることにしよう。」
哲学も勉強できるなんて!
また、「異郷のモダニズム-満洲写真全史-」という特別展の一部も見る事ができました。
満州国と呼ばれた場所の栄枯盛衰の記録写真とも言えるもので、立派な建物や大きな工場が次々と建てられて行ったことを記録する写真もあれば、それらが戦火で破壊されてしまい廃墟となっている写真も…
本当に人間は、作っては壊し、作っては壊し…飽きもせず…これも人間の本性ですよね。
そして、外に一人佇む男性には
頭が無く…頭、どこに置いて来てしまったんでしょうか?頭も顔もなかったら苦しみはないかもなぁ…でも、そんなのつまらないかな…
「そろそろ時間だからホテルに戻らなくちゃ」
と歩いている途中、何故かよく分からないけど、突然、私の目に映るものが美しくて、嬉しくて、感謝したくなる気分になり、胸に込み上げてくるものがあり…
「あれ、なんか変。涙まで出てきた」
うまく説明出来ませんが、
「私はいつでも自分の望んだギフトを受け取っていたんだな。見るもの、感じるもの、いつでも自動的に受け取ってた‼︎」
という考えが浮かびました。
すると、私の目に映ったものは…
これには爆笑🤣!
♫目に映る〜全てのものはメッセージ♫
すると見えてくる、見えてくる!
楽しめ楽しめ!
本日のしあわせは本日限り!
あー、ゲート師匠 のツアーに来て良かったなあ!
ゲート師匠ありがとうございます‼️
もう、笑いが止まりませんでした😆‼️
ゲート師匠の講話から(2)
私にとってのツアー初日(月曜日)、ゲート師匠は午前、午後、夜の3回も講話をして下さいました。
私はお昼に名古屋に着いたので、午前中の講話は聴くことができませんでしたが、午後の部、夜の部、2回もお話を聞くことができてラッキーでした!
19日夜の部は座談会という形でしたので、参加者の方が数名質問されていました。どれも面白い内容でしたが、私が深いお話だなあ~と感じた部分を抜き出しておきます。
(19日夜の座談会から)
Q. 午前中の講話で、(私たちは)瞬間瞬間あらゆる法則、真理を作り出すことができる存在である、とおっしゃったと思うのですが、瞬間瞬間あるようにできるという事は全部相対的な真理なわけで、その場合、それは相対的で、何でもありということになり、あってもなくても全部同じ、何も知らなくてもあまり変わらないのかなと思ったのです。だから(私たちは)不確定性の中にずっと存在するという事になると思うのですが……それを確認したいと思って聞いてみました。
A. あなたがそのように聞き、そのように思ったのであれば、それこそがあなたの真理です。
真理というのは何があっても一つのものだというのではなく、外にあるものではなく、私自身が真理だからです。
なぜ私自身が真理かというと、私がそう信じれば、その信じる心が真理になるのです。私の信じる気持ちが真理だから、私が信じる心を作り出し、それは真理を作り出すのだから、自らが真理で在らざるを得ないのです。
一人一人の皆さんには、すべて自由意志というものが与えられています。これは神からの贈り物です。
神の正体は何か?
神のアイデンティティとは何か?
自由意志なのです。
その自由意思を私たちはそのまま受け継ぎました。非常に公平な状態で。
誰かに対しては囚われを与え、誰かに関しては自由を与えるという事ではなく、すべての一人一人に自由意思を全く同じに与えてくださいました。神の本性というのはその自由意思を自らの子供たちにそのまま与えてくれたのです。だから、神の子である私たちも一人一人が自由意思を持っているのです。
私が信じ選択したもの、それが全てなのです。それが真理なのです。
なぜなら、この世で最も真なる真理とは、「自由意思」だからです。
また、真なる私の正体も「自由意思」だからです。
比較するのも自分だし、劣等感を感じているのも自分だし、優越感を感じているのも自分です。そのすべてを造っているのが、まさに私なのです。すべての事に関して私が自らの手で選んでいるのです。私は囚われも選ぶことができます。私が存在を選択すれば存在することになるのです。私が存在を望まないのであれば、私は存在しないという事も出来ます。
自由意思というのは「存在以前の存在」さえも選択できる「それ」なのです。それこそが私たちの真なるアイデンティティなのです。少し難しいかな?
Q. 難しいというか、自由過ぎてうまく使えないのです。師匠は良く、「なぜそんな不便なことを考えるのですか?」とか「なぜもっと楽にしないのですか?」と言われますが、自由過ぎてうまく使えないのです。
A. たとえ話で説明しましょう。
(中略…ご自身の 中学生時代のある出来事による幽体離脱体験のお話をされました。それがきっかけとなり、それ以後、自由に体から抜け出せるようになったそうです。)
……さあ、ここでもう一つ困ったことが起こったのですが、私はそのように肉体を出て、生活している私という個体があるといつも思っていたのです。抜け出ているのは霊魂だと思っていたのです。本を読んだら「幽体」という言葉を使っていたから、私は「幽体」を使って旅行しているのだと思っていました。
ところが当惑したことが、ある日起こったのです。
その日も「幽体」でポコッと出てみたのですが、いつもと感覚が違っていたのです。見てみると「幽体」がなくなっていたのです。
「あっ!霊魂がなくなっちゃった!」
すごく混乱したのです。
「私はどこにいるんだ?」
私はその前には明らかに霊魂という形をもって、幽体というものが明らかにあったはずなのに、「私」といえるものが無くなっちゃったんです。
結構な時間探しました。「私」がなくなっちゃったんです。
しかし、この考えはどこから出てくるんだろう。自分自身がなくなってしまったがためにすごく混乱しました。
私は明らかに混乱していると思っているのに、
混乱している自分を探してみたらいない。
私はすごく当惑しているのに、
その当惑している自分がいない。
これはいったいどうしたことだ?
私はどこにあるんだ?
どうして私は自分がいないにもかかわらず存在しているんだろう?
ここからまた私の別の勉強が始まったのです。
そして…話すと長くなるので真ん中は省略しますが…
結論は、私は私としてあることもできるし、私を無くすこともできる。すべての苦痛の原因は自分じゃないですか、私でしょ?
その苦痛に満ちている自分はいなくなる。
「自我」というもの、私が誰であるかというものがあったとしても、「私」は依然として存在する。
だから、分かったんです。
わ~、「私」ってすごいなあ。
「私」が私を創造しているんだ。
「私」は作り出す「それ」であり、作り出されたそれではないんだ。
「私」が神であることに間違いないんだ。
私がいないのに、私が誰の影響を受けるというのですか?
神でさえ私に影響を与えることはできません、
影響を与えられる私がいないのに、どうして影響を与えられることがありますか?
ですから、神を探して歩く必要もありませんでした。その時全てが理解されたんです。仏さまがおっしゃった法身、イエスさまがおっしゃった「神の王国」神の概念、それを私自らが体得したのです。
これをだれが壊すことができるでしょう。壊される私がいないのに。
大切なのは、そういう認識を得て私が何を感じたかというと、
これは私だけの経験ではなく、すべての人びとに、すべての人も全く同じ経験ができるんだ、私の本性は神であるといった瞬間、他の人びとの本性も神なのだという事をその時に悟ったのです。
今皆さんは、皆さんと私が違っていると考えています。
「わたし」「あなた」
しかしそれ以前に遡れば、私を作り出したのも「私」であり、あなたを作り出したのも「私」なのです。
しかし依然として皆さんはこのような話を「私が」聞いているがために、まだ、自分・私として聞いているがために、まだ依然として皆さんは混乱するしかありません。混乱する「自分」があるがために。
ただ面白いのは、混乱を感じる自分がいなくなる時が来ます。皆さんにも。いなくても全然関係なしです。私の本来の姿は、無くなったり、また生まれるというものではありません。選択するものなのです。創造を選択し、存在も選択し、消滅も選択し……
みなさん、海があります。海の表面には水の泡ができます。その水の泡が
「私は作り出された。」
「君も作り出されたんだね。」
それらが集まれば
「私たち創造されたんだね。」
「私が先に作られたね。」
「あなたはちょっと後から作られたね。」
「あなたは近いね。」
「あの子とはずいぶん離れているな。」
時間、空間の概念はどこから出たのか?
その水の泡の考えから出たのです。
あなた、わたし、あっちの水の泡、こっちの水の泡、そういったものは水の泡の観点から出てきたものなのです。しかし、それぞれの水の泡はどこから生まれたものでしょう?
海から生まれたのです。
皆さんは、一つの水の泡の経験を今なさっているのです。その水の泡こそが自分だと思っています。ほかの水の泡も、その水の泡の経験をしているだけなのです。これが私たちの現住所、実際の姿なのです。
しかし真実は、私たちは海であるという事なのです。
しかし、このような真実を皆さんが水の泡の状態で聞いているから、ずっと引き続きわたしはわたし、あなたはあなた。しかし、結局皆さんの意識は海に入っていくようにできています。
数千数万数億、種類、差異、変化、それらはすべて水の泡が作った概念です。
それらは真実の概念ではなく水の泡が作り出した、一時的な現象に過ぎないのです。
そこでお釈迦様は、この物質界というのは、夢の中の水の泡のようなものである、
「如夢幻泡影(にょむげんほうよう)」
と言ったのです。金剛教にそういう話が出てまいります。
皆さんは今この瞬間、仏教の精粋を学ばれたのです。考えのレベルであったとしても真実は何かというものを今、分かったのです。
結果的に海の意識は、皆さんがそこに帰ろうという意志さえあれば、海に帰るぞという意志さえあれば、そこに戻っていかれるのです。
しかし常に皆さんには選択権が与えられているので、
「私は水の泡の経験がもっとやりたいわ」
「私は別の水の泡の経験をしてみたいの」
「私はずっと南の方の経験を!」
「私は太平洋!」
「私は大西洋!」
「私はインド洋!」
「こういう経験がしてみたい。ここで水の泡の生活をしたい。」
そんな経験を望んだがために、今、皆さんは日本の水の泡の状態でここに存在しているのです。
(以上)