ÉMAncipé

自分をもっと解放していきたい 朗読者EMAの日々

ゲート師匠の講話から(3)

火曜日の朝、気持ちの良いお散歩から、そのまま会場のホテルへと向かいました。

この日の講話では般若心経のお話が印象的でした。

般若心経の智慧をもっと深く理解したいと思いました。

 

(以下講話から一部書き起こし)

……私たちが今このように存在しているというのは、存在していないことが変化した姿だ、そういう風に言えます。難しいでしょ、概念が。

その言葉はどういう意味かというと、仏教では般若心経で「色即是空、空即是色」

「物質」と「物質のない事」に違いはないのだということです。

 科学者たちは言うでしょう? 物質を構成している最小の物質というのは、実は無いんだと。物質を構成している一番の根本的な物質を探してみようと思ったら、分子、原子、素粒子までは出てくるが、素粒子を成しているそれは何だろうと探してみたら、物質ではなくて「波動」だというのです。

皆さんご存知のように波動というのは、物質ではないでしょ? ただの振動、ウェーブじゃないですか。

ですから物質をなしている究極的な粒子というのは無いのです。

簡単に考えるならばエネルギーという事です。

ですからエネルギーが物質をなしている究極的な粒子という訳ですから、

エネルギーが変化して物質を成しているという訳です。

物質をなしている究極的な粒子というものは無いというのです。

 

皆さん、レントゲン写真を撮ってみると、皆さんの肉は映らなくて、骸骨が出てくるでしょ?

でも、X線を通り越して放射線で写すと、人の骨も見えずに、波動だけ、ウェーブだけが見えるんです。

もちろんその中には光というものが見えます。光の中に細かい振動、ウェーブが見えるんです。

だから皆さん、ここに物質、肉体があるように見えますが、実際には、映像なんですよ。立体映像。もともとはね。

でも、映像だったら物質はそれを通り抜けられないといけないじゃないか。ずっと続けてエネルギーが、凝り固まって、波動がもっとたくさんになったものだから、これが物質のように感じられるんですよ。

 

 

いわゆる、電気に感電してしまったら……電気は物質ではないでしょ?

電気に感電したら、ジリジリと衝撃が来るでしょ。物質ではないのに、皆さんには物質的な衝撃として感じられるでしょ。

例えば、スタンガンを使うとジリジリと感電するじゃないですか、映画やドラマに出てくるでしょ?

だから、それは物質ではないのにもかかわらず、それに当たったら物質に殴られたような、そんな衝撃が来るじゃないですか。

私が何を言いたいのかというと、

私たちが確固として感じるこの感覚、この扇子、このマイク、皆さんとの握手、これは実際には、このような電気的な衝撃と同じなんですよ。物質と物質がこつんと当たったように見え、感じられますが、厳密に言ったら波動同士、ウェーブ同士がぶつかったという事なんですよ。

 

感覚というものはそういったものなんですよ。

唯の電気的なぶつかりなんですよ。衝撃。

だから極端に言ったら、私たちは物質として存在しているのではなくて、唯の「波動」なんですよ。「波動」。

 

私は、何か物質の肉体だと思っていたのに,唯の波動に過ぎなかった。

私たちの本当の正体は、物質ではなくて、唯の波動だ、エネルギーだ。

そうしたら皆さんは取り立ててストレスを受ける必要はないでしょ?でもみなさん、お金の波動は好きじゃないですか!

とにかく、食べること、聞くこと、すべての感覚は、唯の波動、振動に過ぎないという事です。

日本のスピリチュアル雑誌を見ると、波動治療、振動治療という言葉が多いでしょ。それは理屈に合った話なのです。もともと私たちの体はそういう風にできている。

 

それで、みなさん、時間のある時に、仏教の般若心経について調べて、読んでみてください。見たことはあるでしょう?そこには、日本語の解説もあるはずです。解説を読む必要はありません。今日、私の話を聞いたので、般若心経をざっとご覧になったら、新しい理解が、ぱっと入ってきます。私はそれを諳んじています。一説一説が真理です。

3千年も前のお釈迦様は、今になって科学者がようやく発見しているその内容をどうしてわかったんでしょう。3千年前と言ったらどれほどの原始時代でしょうか?それにもかかわらず、3千年もたって今になってから、ようやく科学者が発見しようとしている事を、その方は、とても科学的にそこに書いています。

ずらずら・・・・・と書かれているその内容、今なら皆さんにも理解できることでしょう。だから、今日必ず皆さん、思い出したそのついでに般若心経を見てみてください。はっきりとくっきりと理解できることでしょう。

文字通り、般若心経は、心のお経という事です。英語ではハートストラー、ストラーとはお経です。仏教には8万ほどお経があるといわれますが、その中の心臓に当たるお経だ。だから、仏教の真髄だ。だから皆さんは、今日は仏教の真髄を受け取る機会に出会ったのです。わずか3、40分でね。

 

私たちは物質を、決して変わらない固定したものと考えているが、それは実際、物質ではない。とても活性化された波動だ。そしてそれは真実です。

そうしたら、いくらでも、それに変化を与えることができる。

波動や振動はいくらでも変化させることができるから。

それで、新しい心を持って自分の考えを変えれば、その考えの波動が変わるので、それが、ほかの波動に影響を与えるので、十分に物質に影響を与えることができるんだ。

だから、結局は考えが変わり、心が変われば、私の体が変わるんだ。

そのような理論が成立するんですよ。だから物質はとても堅固だ、固定している、という固定観念から抜け出すことが出来るんです。これは実は、科学者たちがほとんど分かっている内容です。

(講話ここまで)

 

本当は波動でありエネルギーの私たち!ますます自由になれそうです!

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瞬間瞬間受け取っているギフト!

名古屋ツアー2日目の火曜日、薄曇りのお天気で、気温もあまり高くなく、過ごしやすい朝となりました。

11時からの講話まで時間があったので、ホテル近くの白川公園までお散歩しました。

都会のど真ん中だというのにとても気持ちの良い公園です😊♫

シュールなウサギを発見!

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世界一のプラネタリウムがある科学館を眺め、

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時間まで美しく静かな美術館で過す事にしました。

 

モディリアーニの「おさげ髪の少女」をみて、ホンモノだァ!と感激し、荒川修作さんという方の「忘れるということ」という作品に引用されていたイギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームの著書『人間本性論』の一節に惹きつけられたり…(よく知らないのに😥)

係のお姉さんに参考資料の紙を頂いたので、その一節をここに書いておく事にします。

 

「一見して明らかなように、記憶の観念は、想像の観念に比べてはるかに生き生きとして力強い。また記憶の機能が対象を描き出す色合いは、想像の機能が描く色合いよりも、判明である。私たちは、過去の出来事を思い出す時、記憶の観念は説得力ある方法で心の中に満ちてくる。しかるに、想像力においては、知覚は弱く活気がなく、心の中にしっかりと一定の形で保たれるためには、かなりの時間と困難さが要求されるのである。ゆえに、記憶と創造の観念の間には、大きな相違があるのだが、それについては後に十分な吟味をすることにしよう。」

 

哲学も勉強できるなんて!

 

また、「異郷のモダニズム満洲写真全史-」という特別展の一部も見る事ができました。

満州国と呼ばれた場所の栄枯盛衰の記録写真とも言えるもので、立派な建物や大きな工場が次々と建てられて行ったことを記録する写真もあれば、それらが戦火で破壊されてしまい廃墟となっている写真も…

本当に人間は、作っては壊し、作っては壊し…飽きもせず…これも人間の本性ですよね。

 

そして、外に一人佇む男性には

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頭が無く…頭、どこに置いて来てしまったんでしょうか?頭も顔もなかったら苦しみはないかもなぁ…でも、そんなのつまらないかな…

 

「そろそろ時間だからホテルに戻らなくちゃ」

と歩いている途中、何故かよく分からないけど、突然、私の目に映るものが美しくて、嬉しくて、感謝したくなる気分になり、胸に込み上げてくるものがあり…

「あれ、なんか変。涙まで出てきた」

うまく説明出来ませんが、

「私はいつでも自分の望んだギフトを受け取っていたんだな。見るもの、感じるもの、いつでも自動的に受け取ってた‼︎」

という考えが浮かびました。

すると、私の目に映ったものは…

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これには爆笑🤣!

♫目に映る〜全てのものはメッセージ♫

すると見えてくる、見えてくる!

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楽しめ楽しめ!

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本日のしあわせは本日限り!

あー、ゲート師匠 のツアーに来て良かったなあ!

ゲート師匠ありがとうございます‼️

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もう、笑いが止まりませんでした😆‼️

 

 

ゲート師匠の講話から(2)

私にとってのツアー初日(月曜日)、ゲート師匠は午前、午後、夜の3回も講話をして下さいました。

私はお昼に名古屋に着いたので、午前中の講話は聴くことができませんでしたが、午後の部、夜の部、2回もお話を聞くことができてラッキーでした!

19日夜の部は座談会という形でしたので、参加者の方が数名質問されていました。どれも面白い内容でしたが、私が深いお話だなあ~と感じた部分を抜き出しておきます。

 

(19日夜の座談会から)

Q. 午前中の講話で、(私たちは)瞬間瞬間あらゆる法則、真理を作り出すことができる存在である、とおっしゃったと思うのですが、瞬間瞬間あるようにできるという事は全部相対的な真理なわけで、その場合、それは相対的で、何でもありということになり、あってもなくても全部同じ、何も知らなくてもあまり変わらないのかなと思ったのです。だから(私たちは)不確定性の中にずっと存在するという事になると思うのですが……それを確認したいと思って聞いてみました。

 

A. あなたがそのように聞き、そのように思ったのであれば、それこそがあなたの真理です。

真理というのは何があっても一つのものだというのではなく、外にあるものではなく、私自身が真理だからです。

なぜ私自身が真理かというと、私がそう信じれば、その信じる心が真理になるのです。私の信じる気持ちが真理だから、私が信じる心を作り出し、それは真理を作り出すのだから、自らが真理で在らざるを得ないのです。

一人一人の皆さんには、すべて自由意志というものが与えられています。これは神からの贈り物です。

神の正体は何か?

神のアイデンティティとは何か?

自由意志なのです。

その自由意思を私たちはそのまま受け継ぎました。非常に公平な状態で。

誰かに対しては囚われを与え、誰かに関しては自由を与えるという事ではなく、すべての一人一人に自由意思を全く同じに与えてくださいました。神の本性というのはその自由意思を自らの子供たちにそのまま与えてくれたのです。だから、神の子である私たちも一人一人が自由意思を持っているのです。

私が信じ選択したもの、それが全てなのです。それが真理なのです。

なぜなら、この世で最も真なる真理とは、「自由意思」だからです。

また、真なる私の正体も「自由意思」だからです。

比較するのも自分だし、劣等感を感じているのも自分だし、優越感を感じているのも自分です。そのすべてを造っているのが、まさに私なのです。すべての事に関して私が自らの手で選んでいるのです。私は囚われも選ぶことができます。私が存在を選択すれば存在することになるのです。私が存在を望まないのであれば、私は存在しないという事も出来ます。

自由意思というのは「存在以前の存在」さえも選択できる「それ」なのです。それこそが私たちの真なるアイデンティティなのです。少し難しいかな?

 

Q. 難しいというか、自由過ぎてうまく使えないのです。師匠は良く、「なぜそんな不便なことを考えるのですか?」とか「なぜもっと楽にしないのですか?」と言われますが、自由過ぎてうまく使えないのです。

 

A. たとえ話で説明しましょう。

(中略…ご自身の 中学生時代のある出来事による幽体離脱体験のお話をされました。それがきっかけとなり、それ以後、自由に体から抜け出せるようになったそうです。)

 ……さあ、ここでもう一つ困ったことが起こったのですが、私はそのように肉体を出て、生活している私という個体があるといつも思っていたのです。抜け出ているのは霊魂だと思っていたのです。本を読んだら「幽体」という言葉を使っていたから、私は「幽体」を使って旅行しているのだと思っていました。

ところが当惑したことが、ある日起こったのです。

その日も「幽体」でポコッと出てみたのですが、いつもと感覚が違っていたのです。見てみると「幽体」がなくなっていたのです。

「あっ!霊魂がなくなっちゃった!」

すごく混乱したのです。

「私はどこにいるんだ?」

私はその前には明らかに霊魂という形をもって、幽体というものが明らかにあったはずなのに、「私」といえるものが無くなっちゃったんです。

結構な時間探しました。「私」がなくなっちゃったんです。

しかし、この考えはどこから出てくるんだろう。自分自身がなくなってしまったがためにすごく混乱しました。

私は明らかに混乱していると思っているのに、

混乱している自分を探してみたらいない。

私はすごく当惑しているのに、

その当惑している自分がいない。

これはいったいどうしたことだ?

私はどこにあるんだ?

どうして私は自分がいないにもかかわらず存在しているんだろう?

ここからまた私の別の勉強が始まったのです。

そして…話すと長くなるので真ん中は省略しますが…

結論は、私は私としてあることもできるし、私を無くすこともできる。すべての苦痛の原因は自分じゃないですか、私でしょ?

その苦痛に満ちている自分はいなくなる。

「自我」というもの、私が誰であるかというものがあったとしても、「私」は依然として存在する。

だから、分かったんです。

わ~、「私」ってすごいなあ。

「私」が私を創造しているんだ。

「私」は作り出す「それ」であり、作り出されたそれではないんだ。

「私」が神であることに間違いないんだ。

私がいないのに、私が誰の影響を受けるというのですか?

神でさえ私に影響を与えることはできません、

影響を与えられる私がいないのに、どうして影響を与えられることがありますか?

ですから、神を探して歩く必要もありませんでした。その時全てが理解されたんです。仏さまがおっしゃった法身エスさまがおっしゃった「神の王国」神の概念、それを私自らが体得したのです。

これをだれが壊すことができるでしょう。壊される私がいないのに。

大切なのは、そういう認識を得て私が何を感じたかというと、

これは私だけの経験ではなく、すべての人びとに、すべての人も全く同じ経験ができるんだ、私の本性は神であるといった瞬間、他の人びとの本性も神なのだという事をその時に悟ったのです。

今皆さんは、皆さんと私が違っていると考えています。

「わたし」「あなた」

しかしそれ以前に遡れば、私を作り出したのも「私」であり、あなたを作り出したのも「私」なのです。

しかし依然として皆さんはこのような話を「私が」聞いているがために、まだ、自分・私として聞いているがために、まだ依然として皆さんは混乱するしかありません。混乱する「自分」があるがために。

ただ面白いのは、混乱を感じる自分がいなくなる時が来ます。皆さんにも。いなくても全然関係なしです。私の本来の姿は、無くなったり、また生まれるというものではありません。選択するものなのです。創造を選択し、存在も選択し、消滅も選択し……

 

みなさん、海があります。海の表面には水の泡ができます。その水の泡が

「私は作り出された。」

「君も作り出されたんだね。」

それらが集まれば

「私たち創造されたんだね。」

「私が先に作られたね。」

「あなたはちょっと後から作られたね。」

「あなたは近いね。」

「あの子とはずいぶん離れているな。」

時間、空間の概念はどこから出たのか?

その水の泡の考えから出たのです。

あなた、わたし、あっちの水の泡、こっちの水の泡、そういったものは水の泡の観点から出てきたものなのです。しかし、それぞれの水の泡はどこから生まれたものでしょう?

海から生まれたのです。

皆さんは、一つの水の泡の経験を今なさっているのです。その水の泡こそが自分だと思っています。ほかの水の泡も、その水の泡の経験をしているだけなのです。これが私たちの現住所、実際の姿なのです。

しかし真実は、私たちは海であるという事なのです。

しかし、このような真実を皆さんが水の泡の状態で聞いているから、ずっと引き続きわたしはわたし、あなたはあなた。しかし、結局皆さんの意識は海に入っていくようにできています。

数千数万数億、種類、差異、変化、それらはすべて水の泡が作った概念です。

それらは真実の概念ではなく水の泡が作り出した、一時的な現象に過ぎないのです。

そこでお釈迦様は、この物質界というのは、夢の中の水の泡のようなものである、

「如夢幻泡影(にょむげんほうよう)」

と言ったのです。金剛教にそういう話が出てまいります。

皆さんは今この瞬間、仏教の精粋を学ばれたのです。考えのレベルであったとしても真実は何かというものを今、分かったのです。

結果的に海の意識は、皆さんがそこに帰ろうという意志さえあれば、海に帰るぞという意志さえあれば、そこに戻っていかれるのです。

しかし常に皆さんには選択権が与えられているので、

「私は水の泡の経験がもっとやりたいわ」

「私は別の水の泡の経験をしてみたいの」

「私はずっと南の方の経験を!」

「私は太平洋!」

「私は大西洋!」

「私はインド洋!」

「こういう経験がしてみたい。ここで水の泡の生活をしたい。」

そんな経験を望んだがために、今、皆さんは日本の水の泡の状態でここに存在しているのです。

(以上) 

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 「私は日本海積丹ブルーの水の泡よ(≧▽≦)!」

ゲート師匠の講話から(1)

キャンドルライト101名古屋ツアーで私は2日目からの参加でしたので、ゲート師匠の講話を7回聞くことができました。

今日から数回に分けて、師匠の講話の内容を、自分自身のためにメモとして、一部書き起こして残しておこうと思います。(文章のつながりがスムーズになるように文体を直しているところもあります。私の聞き間違いなどもあるかもしれません。その辺の所はご了承ください。)

 

(以下19日午後の講話より)

(前略)……あのイエスが今、日本に生まれてきて、また、お釈迦様が今、日本人として生まれてきても、(人々には)受け入れられないでしょう。彼らが聖人であろうとなかろうとそれは人びとには何の関係もない。

彼らが言っていたのは

「(自らの)内面の神に付き従え」

という事だけなのです。

 (中略)

お釈迦様も

「私は道を指し示しているだけだ。その道を行くかどうかは、みなさんにかかっているんだ。その道が真実だと思う人は行ったらいいし、真実ではないと思うなら行かなければいい。」

お釈迦様が教えた真実の道というのは、天国に行く階段ではなくて、「自分自身」だといったのです。

自分自身の心の道、自分自身の内面の道を行きなさいと。

網にとらえられない風のように、サイの角のように、自分自身の道を行きなさいと。

この勉強の路程というのは自分自身に対する路程です。

偽物というもの、本物というもの、それは誰が作っているのでしょうか。

受け入れられる、受け入れられないというのも、誰がしているのでしょうか?

本物だ、偽物だと区別しているのは誰でしょう?

何が本物で何が偽物なのでしょう?

その概念たちはどこから来たのでしょう?

正常だ、非正常だというのも、正常がそう言いますか?非正常が「私は非正常だ」と言うでしょうか?

全ての価値基準、判断は誰がしているのでしょう?

みな自分がしているじゃないですか。

なぜ自分が作った概念たちに苦しめられないといけないのでしょうか?

 

本当に勉強する人は、他人に関心を持つ必要もなく、他人を非難する必要はもっとないのです。他人と比較する必要もなく、他人に付き従っていく必要もない。

唯一、学ばないといけないと言うなら、正に私がここでしている話、他人と比較する必要はない、他人を非難する必要はない、

ただ自分自身だけに関心を持つんですよ。

教えはこれですべてなんです。

 

禅宗にこのような話があります。

「月を指さすなら、月を見ろ。その指先を見るのではない。」

人は皆、月を指す指先を見て、月を見はしない。

月を見ますか?月が真理だと言います。

でも月の本当の姿は、自分自身なんですよ。

だから、何の問題もないんです。

皆さんなぜ恐れますか?あの人は偽物じゃないだろうか?あの人は本物だろうか?私は騙されているんじゃないか?混乱が起きるなあ。

でも、そういった問題は誰から起こってくるのでしょう。

だから最もいい方法は、正に皆さんが自覚をして、意識の成長をなしたら、自然とすべての事は自分の中で成し遂げられていくということが分かるので、もうそれ以上、外部からやってくる混乱に影響を受けることがなくなるんです。

(後略)(以上)

 

日常生活の中でも、自分の中から、人を疑ったり批判したくなる気持ちが沸き起こってくる事があります。でも、そんな時こそ自覚のチャンスだ!と気づいて、自分の中を見つめてみようと思います。

 

昨日掲載したOSHOの「Joy」の続きもここに置いておきますね。

JOY(4)第2章2 by Emmayumi | Free Listening on SoundCloud

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お試し!

昨日名古屋から戻ったばかりなので、今日は一日中家でのんびりしようと決めて、洗濯、掃除をしたり、お茶を飲みながら読書……とまったりと過ごしていました。

ブログ書こうかな…とぼんやり考えていて、

「ブログに図書館があるといいな…」

「ブログに直接音声を貼り付けられないかな…」

など、前々から考えていたことをちょいと調べてみることにしました。

直接貼り付けると重たくなってしまうらしいのですが、SoundCloudを使う方法が何だか簡単そうなのでやってみますね。

いろいろな事情で、今はYouTube上から削除したOSHOのJOYの朗読音声をここに張り付けてみますね(1と2は録音状態が悪すぎるので、録音し直そうと思います。)

JOY(3)第2章1 by Emmayumi | Free Listening on SoundCloud

もう2年以上前の録音でマイクも古く、朗読も下手ですが、よろしければ聞いてみてください。

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OSHOといえば蓮の花のイメージですね。

上の写真は去年、東京上野公園の不忍池(しのばずのいけ)で撮った蓮の花です。

この時初めて実物の花を見て、美しさに感動しました!

今から帰ります

とうとうツアーも最終日。

ゲート師匠の最後の講話は圧巻でした。

 

「夢だよ」

 

あ〜、やっぱりイエスと同じ事言ってる。

そおかあ。

恐れなしに生きる事に決めた!決めたよ!

まだまだ心が小さい私ですが、常に自覚を心掛けて心を大きく育てて行きます。

 

ツアー最後の講話は9時半に終わったので、飛行機出発時間の18時まで、8時間半もの自由時間!

ゲート師匠のプレゼントですね〜😊♫

その時間を使って伊勢神宮まで足を延ばしてみる事にしました。

移動に片道1時間半、伊勢での滞在時間は1時間程度だったので外宮のみの参拝でしたが、美しく凛とした気をたっぷり浴びて来ました。

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古からこの場を守ってきた巨大な樹木たち。

その存在の厳かさに心が打たれました。

 

それで今は…空の上でこの文章を書いています。

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アップは新千歳空港で!

 

 

般若心経現代語訳

ゲート師匠が講話の中で「般若心経に書かれている事を良く理解しようとしてごらん。」と言われました。

私自身の般若心経の理解はかなりぼんやりしているものなので、ネットで調べてみました。

たくさんの方々が訳したり解説したりしていますが、私にとっては下の現代語訳が分かりやすかったので、メモの代わりにここに掲載しておこうと思います。

 

般若心経現代語訳

 https://matome.naver.jp/m/odai/2141795115095977001から転載。

 

 

楽になれる方法を知りたいですか?
誰でも幸せに生きる方法を知りたいですか?
そのヒントを教えてあげます。

もっと力を抜いて、体を、精神を、楽にさせるんです。
この世の「苦しみ」も「辛さ」も、全ては「幻」なんです。

もっとリラックスして、安心してください。

この世は、現世は、空しいものです。
「痛み」も「悲しみ」も、最初から空っぽなものです。
そこに意味なんて、意義なんて、無いのです。

この世は、変わり行くものです。
「苦」を「楽」に変える事だって出来る。

「汚れる」こともあれば、「背負い込む」事だってある。
だから抱え込んだ負のものは、「捨て去る」事も出来るはずです。

この世がどれだけ「いい加減」な「幻」であることか。
「苦しみ」とか「病」とか、背負い込んだものに拘ってはいけません。

自身の境遇に必要以上に悲観的になってはいけません。

見えてるものに拘ってはいけません。
聞こえるものにしがみついてはいけません。

舌で感じる「味」、鼻で感じる「香り」人それぞれでしょう。
自分の感覚なんて、拘りなんて、「幻」のようなものです。

そこに拘っても、何のあてにもなりません。

現世には、様々な幻の干渉があなたに訪れます。
それで揺らぐ心に拘ってしまってはいけません。
心が、芯が、揺らいではいけません。
それが『無』というものです。

現世で生きている限り、色々な事があるものです。
「辛い」モノを見ずに、経験せずに、生きるのは難しいです。
避ける事が出来ない、あなたに訪れる「苦しみ」。
でも、そんな「幻」は、その場に置いていけばよいのです。

先の事は、誰にも見えません、分かりません。
無理して人生の先を照らそうとしなくていいのです。

見えない事を愉しめばいいのです。
それが生きてる実感というものなのです。
苦を全て避けた道を歩いて生きるのは、確かに難しいです。
でも、「明るく」生きるのは誰にだって出来るものです。

「明るく」生きる、とは、菩薩になるという事です。
菩薩として生きるコツがあるのです。
苦しんで生きる必要なんて無いんです。
愉しんで生きる菩薩になるんです。

全く恐れを知らなくなってしまうのは行き過ぎです。
現世にある適度な恐怖、苦しみ、痛み、
それらは明るく生きていくのに役立つはずです。

勘違いしてはいけません。
人の心を失い、非情になってはいけません。
夢や空想や慈悲の心を忘れてはいけません。

それができれば、涅槃はどこにだってあるのです。


現世での生きる道は、菩薩になろうとも何も変わらない。
ただ、その道で待ち構えるモノの受け止め方が変わります。


「心の余裕を持ちなさい。そうすれば、誰でも菩薩になれます。」
この「般若の言葉」を覚えておきなさい。
短い言葉なので、繰り返し唱えて覚えなさい。

意味は最初は知らなくてもいいのです。
細かい事は後から理解できます。
般若の言葉を唱えるだけで苦しみが小さくなれば良いのです。

嘘も、デタラメも、この世にある不条理を全て認めてしまいなさい。
受け入れれば、苦しみは無くなります。
この世の中は、そういうものなのです。


さて。
今までの言葉は、前置きとして全部忘れても構いません。
でも、最後にこれだけは必ず覚えておきなさい。

生きている中で、いつでも、どこでも、気が向いたら呟くのです。
心の中で唱えるだけでも、よいのです。

いいですか? この言葉を、よく聴いて覚えなさい。

『唱えよ』
『心は消え、魂は静まる』
『全ての真理は此処にある』
『全てを超越した時、悟りは叶うだろう』
『全てはこの真言に成就する。』

何も心配しなくて良いのです。
大丈夫です、安心して、菩薩の心で生きなさい。

(転載以上)

 

優しい言葉で書かれていて、ステキです。

何度もじっくり読み直したいです。

 

 

また、昔読んだ事のある柳澤桂子さんの訳もとてもステキだったよなぁ、と思い出し、調べてみると、ご本人が出演された「ラジオ深夜便」の音声がYouTube にアップされていたので、それもここに上げておきます。

https://youtu.be/qO0sjtqz9Oo

 

今日の名古屋は小雨がぱらついています。

ゲート師匠のお話はあと2回……。

楽しみます😊

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昨日見た名古屋城!立派でした!

シャチホコがピカピカ✨