ゲート師匠の講話から(1)
キャンドルライト101名古屋ツアーで私は2日目からの参加でしたので、ゲート師匠の講話を7回聞くことができました。
今日から数回に分けて、師匠の講話の内容を、自分自身のためにメモとして、一部書き起こして残しておこうと思います。(文章のつながりがスムーズになるように文体を直しているところもあります。私の聞き間違いなどもあるかもしれません。その辺の所はご了承ください。)
(以下19日午後の講話より)
(前略)……あのイエスが今、日本に生まれてきて、また、お釈迦様が今、日本人として生まれてきても、(人々には)受け入れられないでしょう。彼らが聖人であろうとなかろうとそれは人びとには何の関係もない。
彼らが言っていたのは
「(自らの)内面の神に付き従え」
という事だけなのです。
(中略)
お釈迦様も
「私は道を指し示しているだけだ。その道を行くかどうかは、みなさんにかかっているんだ。その道が真実だと思う人は行ったらいいし、真実ではないと思うなら行かなければいい。」
お釈迦様が教えた真実の道というのは、天国に行く階段ではなくて、「自分自身」だといったのです。
自分自身の心の道、自分自身の内面の道を行きなさいと。
網にとらえられない風のように、サイの角のように、自分自身の道を行きなさいと。
この勉強の路程というのは自分自身に対する路程です。
偽物というもの、本物というもの、それは誰が作っているのでしょうか。
受け入れられる、受け入れられないというのも、誰がしているのでしょうか?
本物だ、偽物だと区別しているのは誰でしょう?
何が本物で何が偽物なのでしょう?
その概念たちはどこから来たのでしょう?
正常だ、非正常だというのも、正常がそう言いますか?非正常が「私は非正常だ」と言うでしょうか?
全ての価値基準、判断は誰がしているのでしょう?
みな自分がしているじゃないですか。
なぜ自分が作った概念たちに苦しめられないといけないのでしょうか?
本当に勉強する人は、他人に関心を持つ必要もなく、他人を非難する必要はもっとないのです。他人と比較する必要もなく、他人に付き従っていく必要もない。
唯一、学ばないといけないと言うなら、正に私がここでしている話、他人と比較する必要はない、他人を非難する必要はない、
ただ自分自身だけに関心を持つんですよ。
教えはこれですべてなんです。
禅宗にこのような話があります。
「月を指さすなら、月を見ろ。その指先を見るのではない。」
人は皆、月を指す指先を見て、月を見はしない。
月を見ますか?月が真理だと言います。
でも月の本当の姿は、自分自身なんですよ。
だから、何の問題もないんです。
皆さんなぜ恐れますか?あの人は偽物じゃないだろうか?あの人は本物だろうか?私は騙されているんじゃないか?混乱が起きるなあ。
でも、そういった問題は誰から起こってくるのでしょう。
だから最もいい方法は、正に皆さんが自覚をして、意識の成長をなしたら、自然とすべての事は自分の中で成し遂げられていくということが分かるので、もうそれ以上、外部からやってくる混乱に影響を受けることがなくなるんです。
(後略)(以上)
日常生活の中でも、自分の中から、人を疑ったり批判したくなる気持ちが沸き起こってくる事があります。でも、そんな時こそ自覚のチャンスだ!と気づいて、自分の中を見つめてみようと思います。
昨日掲載したOSHOの「Joy」の続きもここに置いておきますね。
JOY(4)第2章2 by Emmayumi | Free Listening on SoundCloud