ÉMAncipé

自分をもっと解放していきたい 朗読者EMAの日々

ゲート師匠の講話から(7)

毎日書こうと思っていたブログを3日もさぼっちゃいましたね。

面白い気づきや新しい試みもあって、書きたいことはたくさんあったのですが、やっぱり文章に書くという事が私にとっては未だに大ごとなんですよね。

もっと楽に考えて書くようにしたいなぁと思っています。

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さて、名古屋ツアーのゲート師匠の講話もとうとう最終日です。

最終日(22日)の師匠は、お話に熱がこもっていて、迫力がありました。

私たちに「起きなさーい!」と呼び掛けていたのだと思います。

私は寝起きが良くないからなあ…まだいい夢見ていたい…もう少し寝ていたいなあ…

と思っているのかな。

 

(以下、講話書き起こし)

 

…さあ、そして、この私を目覚めさせるという勉強、ブッダとなるというこの勉強。

これが簡単そうに見えて難しいのです。

 

私たちは幼いころから長い間にわたってある教育というものを与えられてきました。多くの価値観や、社会的な通念、道徳的観念、そのようなものが私たちの遺伝因子の中にきちんとはまっているわけです。ですからこういうような状況を自分が受け入れているという事は本当に大変なんです。ですから目覚めるという事は、自覚するという事は本当に大きな事件なのです。

 

どのように例えたらいいかというと、その方法しか説明しようがないのですが…

「現実に対する否定」です。

「現実は夢である」

「幻想である」

だから昔の目覚めた人たちは「夢から覚めろ、目覚めろ!」といいます。

皆さん夢の中で、多くの出来事を経験することが出来ます。夢の中で人殺しもし、殺される直前まで行ったりもする。私が怒りに満ちて何かを追いかけることもあり、また、誰かに追われることもあります。悪い夢を見るとリアルな感覚を受けます。夢の中にもかかわらず冷や汗をかき、起きた後もまだ冷や汗をかいています。その余韻がすごく自分の中に残るでしょ?

「本当に夢の中で怖い事ひどいことが起こったよ!」

「私を苦しめたよ。本当に大変だった。」

しかし、起きてみれば、自分が目覚めてみれば、そのリアルな出来事は夢に過ぎなかったのです。

 

では…本当に夢にリアリティがありました。

ホントに恐ろしい人が追いかけてきて私を苦しめました。私は夢の中で怒りを抑えることが出来なかった。あまりにも怒りに駆られて、相手を刀で殺し続けました。

また、夢の中で、相手がとても美しい存在だった。私は夢の中で深い愛情にあふれ、これが永遠であるようにと祈りました。この瞬間がいつまでも続くように。しかし目覚めてみれば、夢でした。

さあ、夢の中に登場する「恐れ」「愛」「憤怒」これは皆さん、実在したのでしょうか?

夢は存在しましたが、現実に戻ってみたらそれは夢に過ぎなかったという事です。

じゃあ皆さん、ある人が皆さんを捕まえて、自分が前の日に見た悪夢についてずっと語ります。

「ほんとに恐ろしい奴だったんだよ。」

「本当に憎たらしい奴だったんだ。」

「ああ、あの人に自分は惚れ惚れしたよ。」

それを聞いて、

「ああ、そうなんだ。だけど、それは夢だよ。」

 

皆さん、本当はね、皆さんが肉体を離れると、その肉体を離れる瞬間、この現実は霊魂の観点から言ったら、本当に遠い日の夢のように感じます。

ここにおける波乱万丈の記憶、約百年ほどのこの波乱万丈の人生が、肉体を離れた瞬間に、一夜の夢のように感じるのです。

ずっと続けて何かが行われるという事はないのです。

皆さん、悪夢を見ると、その日一日、とても深く記憶に残っています。その次の日まで残っているかもしれない。何日間か、時間を過ぎても、記憶が残っている人もいます。

しかしそれは「夢である」という記憶を持っているにすぎません。

どんなに長い間、自分の記憶として持っていたとしても、それは夢としての記憶であるように、皆さんが生きていた80年90年といった人生は、肉体を離れた瞬間、夢となってしまうのです、皆さん。

これが現実であり、真実なのです。

 

じゃあ、皆さん。(もしかしたら)80年90年も生きられないかも知れない。今、今日死んでしまう人もいるかもしれないのです。

自分たちが計画立てて生きてきた人生が、人生が30年40年として記憶されるのではなく、私たちが一夜の夢を見るように、たった一つの夢として記憶されるという事なのです。

何十年もの人生が、たった一つの記憶に過ぎなくなるのです。

皆さん、これは事実であり現実です。皆さんが認めようが認めまいがそれは事実です。皆さんが死を受け入れようが受け入れまいが皆さんは死ななければならないように。

「それは違うと思います」というどのような反論をしたとしても、死は避けては通れないように、皆さんの人生が一夜の夢に過ぎないという真実が変わることはないのです。

この事実、現実に対して、皆さんはよく考えてみるべきです。

 

(中略)

 

皆さん夢を見るとき、自分の意識がなくなるでしょ。夢の中でもそのままのしっかりとした意識を保って夢に入っていくという人はいないでしょ。

皆さん方はしていないから分からないだろうけれども、実はそれも可能なんですよ。24時間、夢の中にはまり込まずに、ずっと目覚めた意識でいるという事は出来ます。

とにかく皆さんは寝た時、ある瞬間に意識がなくなるでしょ。それはほんの一時なんですよ。

寝たら夢が始まるように、皆さんが肉体を離れたら、天国では、ちょっとの間意識を失って、また目覚めるのです。そうするとまた別の意識活動が始まるのです。

それこそが霊的な世界です。

しかし90%の人たちは、自分が死んだという事実に気が付きません。また、死んだという事を受け入れたとしても、

「え?私、死んじゃったわけ?」

「私、本当に死んじゃったのかしら?」

そのような考えを少しの間していますが、生きていた時のような「死という概念」を受け入れることはありません。

なぜなら、生きている間には、「死」というものはすべての事が終わってしまう事である、何も分からないし全てが暗闇だ、死ねばそれまで…と、そのようにずっと学び続けてきました。

そのように理解をしてきましたし、皆さん方が(死を)もっと深く知ろうとせずに、その概念をそのまま受け入れてきたがために、私に、今、意識活動があって、考えが起こってくるのですから、死んだという概念を当然受け入れることが出来ません。

 

それで、肉体を離れた霊魂に、

「あなたは死んだんですよ」と言うと…

(例えば)今皆さんに、「これは本当は夢なんだよ。夢を見ているだけなんだ。」

(と言っても)皆さんはその言葉を受け入れることが出来ますか?

つねったら痛いし、飲むこともできれば感じることもできる。

見えるし、聞こえるし、考えることもできるのに、どうして私が死んだといえるんだ?

これは扇子でしょ?扇子。これがどうして夢なんだ?

そのように反応するでしょ?

皆さん方が本気で、皆さん方の現実を冷徹に直視すれば、

これを夢と認識し、新たな自覚の意識を持つという事は難しい事ではありません。

しかし、習慣、固定観念、強迫観念、それから抜け出すということがとても大変なのです。

 

そこで、皆さん方は、そういうことを知りつつ、数千回、多い人は数万回、ずっと転生を繰り返し続けているのです。

そこから抜け出る道は、徹底してこの現実を直視し、生まれて死ぬこと、ここに対して自らがもっと現実的に感じてみることなのです。

生と死について、もっとしっかりと考える必要があります。

生きるとは何か、死とは何か?

死とはいつ私におこることなのか?

それは私にいかなる結果をもたらすか?

であれば、死がいついかなる状態で私に来るかわからないのに、

生きている間に私は何をするべきなのか?

 

皆さん方、寝る前に自分の現実というものをきちんと置いておいて、しっかりそれを見つめ、探究する必要があるという事です。

そうしてこそ、皆さん方はそこから抜け出ることが出来るのです。

 

皆さん方がきちんと見つめて、探究したときに、皆さん方が目覚め始めるのです。

 

「ああ、私は~のように生きるべきなんだ。」

「生きている間に、これをするべきなんだ。」

そういう明確な価値観が生じるがために、その明確な価値観をもって、完全に違った人生を生きるべきなのです。

 

しかしその人生は、まず「否定」から始まるという事なのです。

すなわち、現実的に持っている自分の観念や価値観、そういうようなものを思いっきり無視するしかないのです。(後略)

 

(書き起こし以上)

 

 

 

私自身、何か「いい事思いついた!」とひらめいたとしても、

大抵は、

「そんなことやる意味ないよ」

「めんどうだな」

「恥ずかしいよ…」

「そんなこと出来るわけがないよ」

「きっとうまくはいかない」

「今はお金がないから、いつかね!」

「子どもがいるから無理!」

など、心の中で色々な声が飛び交います。

これらの声が、師匠の言う「現実に持っている自分の観念や価値観」であり、これらを断固否定し、無視するところから始めてみるべきなのでしょうね。

 

実際、ちょっと勇気を出して小さなところからやってみると、

「あら、なんという事はなかったな」

「良く分からないけど、うまくいっちゃった!」

なんてことになったりもします。

もちろん、「失敗」に見える羽目にもなったりしますが、それは、「いい体験したな」と捉えれば、「失敗」もただの「体験」になりますし…(あとから、笑い話や武勇伝になったりもしますwww!)

「これは私の夢!」

このように現実をとらえることが出来たとき、これまでとは逆に、恐れなしにしっかりと自分の人生を創り出していけるのだと思います。

実践あるのみです(≧▽≦)!

 

 

やっぱり与えることと受け取ることは同じ!

今日から日曜日まで、娘の高校の学校祭が行われます。

今日は仮装パレードの日でした。

クラスごとに思い思いのテーマで仮装して、山車をもって市内を歩きます。

 

私は絶好の撮影ポイントで、娘のクラスが来るのを待っていました。

他のクラスの仮装も、見ていてとても楽しかったので、何枚も写真を撮っていました。

仮装した子供たちは、ぞろぞろと歩きながら、沿道の私たちに向かって「こんにちわ!」と元気に笑顔であいさつしながら次々と通り過ぎていきます。

見知らぬ私のようなおばさんにも、皆笑顔で挨拶してくれるので、なんだかとってもいい気分♡

私がカメラを構えていると、私に向かってあいさつしながら、

「撮影して!」

というそぶりで、ポーズをとってくれる女装した男の子がいました。

さわやかな挨拶、屈託のなさ、笑顔のかわいさに圧倒されて、私も嬉しくなって

「はい、チーズ!」

とシャッターを切ってしまいました。

「ありがとうございます!」とその子。

私は思わず「何年何組?」と聞くと、彼は「〇年〇組」と答えながら楽しそうに去っていきました。

こんな心の交流っていいなあ。

 

子どもたちは次から次へとやってきます。

私はアンパンマンのカビルンルンに扮した娘の姿もカメラにバッチリ納めて、仮装の子供たちがクラスの踊りを披露するパフォーマンス会場へと向かいました。

最近の子供たちはホントにダンスが上手!

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たくさんのお客さんに囲まれながら、笑顔でパフォーマンスを見せてくれる子どもたち。振り付けも衣装もみんな自分たちで準備するんだから、ホントすごいなあ、と感心してしまいます。

娘も楽しそうに踊っていたので、その姿を見ることが出来ただけで母は満足でした(≧▽≦)!

 

帰り道、ふっと

「さっき、写真を撮ってあげたあの男の子に、写真をあげたいなあ」

と、思いました。

「めんどうだな。」「知らない子だし必要ないでしょ?」

なんていう思いもよぎったのですが、

「あの知らない子に今日撮った写真をすぐに渡してびっくりさせたい!」

というアイディアに、自分自身がなんかワクワクしてしまったんです^^♪

すぐ近くにセブンイレブンがあったので、SDカードから2枚だけプリントアウトして、学校の事務の方にその子のクラスの先生に写真を渡してくれるようお願いしてきました。

 

 

たったそれだけの事なのに(無事にその子の手に渡ったかどうか、その子が喜んでくれたかどうかも定かではないのに)私の心の中は大満足!

ただの大きな自己満足なのに、心の中はHappyな気持ちで満たされていました。

私は彼に「喜び」をあげようと思って、思いを実行したと同時に、私はすでに「喜び」で満たされていました。

 

 

あ、昨日のコースのレッスンで言ってたことだ!

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レッスン108

「与えることと受け取ることは真実においては一つです。」

 

 

 

 

亜麻の花

昨日、JRの電車の中でTwitterを見ていて、こんなツイートを見つけたんです。

 

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亜麻の花か~!きれいだな~!でも、本物見たことないなあ。

見てみたいなあ~。今咲いているのかな?

行ってみる?明日は予定入ってないよ!

明日の天気は…?

「晴れ」!

これは行くしかない!

 

……という事で、行ってきました!当別町

今朝は晴れの予報なのに、雲が厚く垂れこめていて、どんより。

それでも、桜を見に行った時も聖霊さんが晴らしてくれた!だから大丈夫!

そんな気持ちで出かけました。

当別町は今週末に「第10回北海道亜麻まつりin当別」というお祭りが企画されていて、そのチラシに出ていた地図を頼りに亜麻畑を探しました。

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この地図によると、計4か所の亜麻畑があるようなのですが、街中よりも山の方がいいなあと思い、まずは地図の「青山地区」に行ってみることにしました。

意気揚々と行ったのですが、「ここだよなぁ・・・?」という場所には、田んぼと麦畑が広がっているだけで、青い花畑らしきものは見当たらず・・・。

行けども行けども、田んぼと麦・・・。

空もどんより、心もどんより・・・。

ちょっと残念・・・。

 

 

「さあ、まだ他の亜麻畑がある!3か所もあるよ!」

と気持ちを切り替えて、「東裏地区」の「篠津運河」沿いの畑を目指しました。

地図は碁盤の目になっていて、とても分かりやすそうなのですが、

実際は、ほぼ全部どこを見ても広い広い麦畑と田んぼで、何の目印も標識もなく、頼りのgoogle mapsも目的地表示の赤い印が、畑には付かない!

それでも何とか「このあたりだよなあ・・・」の場所に来てみたものの、青い花畑は見えなくて、泣きそうになりました。

来た道を引き返して・・・さらに進んで・・・進んで・・・

 

 

 

ありました~!!!

 

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やっと会えました。青い可憐な妖精。はじめまして。

 

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もう嬉しくて嬉しくて、この嬉しい気持ちを誰かと分かち合いたくて、YouTubeで初めてのLive配信もしてしまいました!

youtu.be

突然のLive配信だったのに、しかも、2分程度の短い時間だったのに、3・4名の方が同時に見て下さっていて、感動しました!

Liveって「同じ瞬間を共有できている!」という感覚が本当に嬉しいなと思いました。

 

そして、この青い空と、おひさまの光!

本当に頼りになる聖霊さんです!もう、感謝の気持ちしかありません!

ありがとうございました!

こんなに素敵なシチュエーションを提供してくれるなんて!

そして、少しのドキドキもありがとう!

ちょっと不安がらせて、こんなに素敵なものをプレゼントしてくれるなんて、聖霊さんはきっとプレイボーイに違いない(≧▽≦)!

今後ともどうぞよろしくお願いしますよ!聖霊さん!

 

 

あとから気づいたことでしたが、実は亜麻の花が満開の畑はここだけだったようです。

導きに感謝!感謝!です。

私は目で「青い花畑」を探していたので、「青山地区」の花が満開となっていない亜麻畑にはどうやら気づかなかったみたいなのです。帰り道で見た近くのもう一つの亜麻畑は花がまだまばらで、ただの草地のように見えました。

知らぬ間に、私の望んだ

「一番いい場所」

「(晴れる時間を見計らった)一番いい時間帯」

に連れて行ってもらえていたのです。

やはり、頼りになるのは

「色眼鏡の付いたエゴちゃんの思考や知覚」ではなくて

聖霊さんにおまかせ!の気持ち」なんだなあとあらためて思った一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

コースワークブック再開!

しばらくサボっていた「奇跡のコース」のワークブックを今朝から再開しました。

いつも香咲弥寿子さんの朗読を聴きながら学習しています。

https://youtu.be/E7cP9cT781w

今日のワークは今の私にとてもヒットしたので、ここで一部シェアしたいと思います。

 

(以下の訳はThere Is No Spoon さんからの

転載http://thereisnospoon.jp/

Lesson 107 - Truth will correct the errors in my mind
レッスン107「真理が私の心の中の誤りを修正してくれる」

1. What can correct illusions but the truth?
 真理以外の何が幻想を正すことができるというのでしょうか。

 And what are errors but illusions that remain unrecognized for what they are?
 そして、誤りとは単に、それが錯覚であると気づかれないままになっている幻想にほかならないのではないでしょうか。

 Where truth has entered errors disappear.
 真理が入ってくると、誤りはそこから消え去ります。

 They merely vanish, leaving not a trace by which to be remembered.
 誤りは単に消滅するだけで、思い出すことができるような痕跡を残すことなく去ってしまいます。

 They are gone because, without belief, they have no life.
 誤りは生命を持たないがゆえに、信じられることがなければ、消え去ってしまいます。

 And so they disappear to nothingness, returning whence they came.
 そのようにして、誤りはそれが生じた無へと戻って消え去ります。

 From dust to dust they come and go, for only truth remains.
 塵から塵へと、誤りは来ては去ってゆきます。というのは、ただ真理だけが変わらないものだからです。

(中略)
9. Truth will correct all errors in your mind which tell you you could be apart from Him.
 真理は、あなたに自分が聖霊から離れていることができると告げるあなたの心の中のあらゆる誤りを修正してくれます。

 You speak to Him today, and make your pledge to let His function be fulfilled through you.
 今日、聖霊に語りかけ、自分を通して聖霊の役割が果たされるようにすると誓約してください。

 To share His function is to share His joy.
 聖霊の役割を分かち合うことは、聖霊の喜びを分かち合うことです。

 His confidence is with you, as you say:
 次のように言えば、聖霊の確信があなたのものとなります。


Truth will correct all errors in my mind,
真理が私の心の中のすべての誤りを修正してくれる。

And I will rest in Him Who is my Self.
そうすれば、私は自分の大いなる自己である聖霊の中に安らぐことになる。


 Then let Him lead you gently to the truth, which will envelop you and give you peace so deep and tranquil that you will return to the familiar world reluctantly.
 それから、聖霊に、真理の下へとあなたを優しく導いてもらってください。真理は、あなたを包み込み、あなたにあまりに深く安らかな平安を与えてくれるので、あなたは慣れ親しんだ世界に戻りたくなくなることでしょう。


10. And yet you will be glad to look again upon this world.
 それでも、あなたは再びこの世界を見て嬉しくなるはずです。

 For you will bring with you the promise of the changes which the truth that goes with you will carry to the world.
 というのも、あなたと共に歩む真理がこの世界に様々な変化をもたらすという約束を、あなたは自分と一緒に持ち帰ることになるからです。

 They will increase with every gift you give of five small minutes, and the errors that surround the world will be corrected as you let them be corrected in your mind.
 この世界にもたらされる様々な変化は、あなたがたった5分の贈り物を捧げるたびに増えていき、そして、この世界を包囲していた誤りの数々は、あなたが自分の心の中で誤りが修正されるようにするにつれて、修正されていきます。

(転載以上)

 

今日のワークの

「誤りとは単に、それが錯覚であると気づかれないままになっている幻想にほかならないのではないでしょうか。」

「真理が私の心の中のすべての誤りを修正してくれる。そうすれば、私は自分の大いなる自己である聖霊の中に安らぐことになる。」

という言葉に安心させられる私がいて、朝からとても良い気分でした。

ゲート師匠もいつも、

「これは幻想に過ぎない」

「「私」の現住所を常に自覚しよう」

と言っています。ここで言う「私」と「大いなる自己」「聖霊」は同じなのでしょう。

「私」の居場所を真実の元におけば、この世界は幻想です。その事に常に気付いていて、幻想世界を楽しむ事にします。

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ゲート師匠の講話から(6)

21日(水)の夜の懇談会の前に、会員の方による「前世の見方講座」と「スプーン曲げ講座」があり、私は「前世」の方だけ参加してみました。

 

誘導瞑想で前世を見ていくのですが、はっきりとは見えなかったものの、ぼんやりとしたイメージを感じることはできました。

何だか山深いところで、修験道の行者のような姿で歩いている私。頑張っている様子なのだけれど、なんだか一人寂しそう。

「あなたはどんな様子で亡くなりましたか?その人生で何を学びましたか?」

と問われ、浮かんできたイメージは、

「何もかも捨てて修行したのに、何も得られなかった」

という無念な思いでした。

もう残念で残念で…という気持ちがあふれてきて、涙まで出てきました。

あー、だからまた生まれてきたんだな。私。

これはもう、今世で絶対に悟りたいものです!

 

また、私は参加しなかった「スプーン曲げ講座」は大変盛り上がったようで、皆さん、ぐにゃりと曲がったスプーンを手に満面の笑みでお部屋から出てきました。

私も次回は参加しよう!と思った次第でした。

 

さて、ゲート師匠は皆さんが曲げたスプーンを見て、大喜びされていました。

そして、以下のようにお話しされました。

 

(以下一部書き起こし)

皆さん、このような(スプーン曲げのような)小さなことから始めて、私たちは「できるんだ」という信念を持つことから始めて、思考を転換することがとても大事なんです。このように金属にも影響を与えることができるんですから、どうしてこの柔らかい私の体に影響を与えられないはずがあるでしょうか?

皆さんがもともと持っている手は、神の手であり、薬の手です。

これが体を触れば治療が全部できるようになっている。

ですから、まず最初に私をとても尊いと思わなければならないんです。

私の事をとても尊く思ったその時からが、始まりなんです。

 

(中略)皆さんと同じような人を探してみてください。日本に、地球上に、宇宙に、どこに行っても私のような人はたった一人なんです。その一つだけとってみても、どれほど私自身には存在価値があるでしょう。

この宇宙に、この地球人類だけでも70億で、太陽系、銀河系、あの遠い宇宙の果てまで、数限りなく数億の生命体がいます。数十億、数千億の生命体が生きているのに、その中でも、私のような存在はたった一つしか存在しないんだ。

この宇宙全体には、私のような人間は私一人しかいない。皆さん喜悦感を感じませんか?どうして喜悦感を感じられずにいるんでしょうか?そしてどれほど恍惚として感謝できることでしょう。たった私一人しかいないのに。あまりにも喜悦感に満ち溢れるじゃないですか!その事だけ見ても、私がどれほど尊い存在でしょうか?

(中略)

なんであろうとも、たった一つというのは希少価値がものすごいんだよ。

だからほかの事を見る必要がなぜあるんだろう。神を見る必要がないし、私一人で十分なんだ。

それ一つだけを皆さんが完全に受け入れたら、ここで一番大きな悟りが起こり得るんだ。その一つだけでも、この事実一つだけでも、ものすごい悟りが起こり得るんだ。

何か難しい悟りだろうか?この宇宙に私のような存在は私一人しかいない。

それが心に押し迫った時、それを受け入れたとき、それを受け入れざるを得ないんだよ。明々白々な事実だよ。その恍惚感は言葉では表現できない、何にもうらやましいことがないんだ。私は一人だ、私のような人は一人しかいない。この祝福、この恍惚感。

どうして皆さんはこうしたことを感じずに生きているんだ!

(人は)誰かを見ながら、あれを持てたらいいな、誰かがうらやましいな、と言う……

私がいつも皆さんに言っていることは、私は神さえもうらやましくはない。私は私一人しかいないんだ。私はその一つだけでも、私の存在の尊さは分かったよ。

それで私は他の何にも気を遣わず、私自身についての自覚をしよう。私が目覚めて行くことだけに集中しよう。宇宙、神様、イエス様、仏様、見る必要がないんだよ。

私はこの一つしかない尊い事だけを考えようと、私にだけ集中し、私にだけ関心をもって、私のために生きたんです。

私の体が何かを食べたいというのなら、7.8時間かけて車を走らせても、食べさせて上げるようにしました。冷麺を食べさせてあげました(笑)。どれほど尊い存在だから、冷麺を差し上げないといけないじゃないですか。

私自身にそのようにして、私の尊さ、私のために、私に対する愛、私の存在価値が分かったんです。

その時から私の全ての感覚器官がよみがえってきました。

すべての細胞と今対話をしているような気持ちです。恍惚感に満ちますよ。その一つだけを悟っただけなのに恍惚感に満ち溢れました。

この真実は私にだけあるんだろうか?

いえ、皆さん一人一人にあります。それが真実です。どれほど幸福感に満ちた祝福でしょう。

(書き起こし以上)

 

自分を大事にすること、自分を愛すること。

基本はここから!ですね。

満ち溢れた自分になっていく!

修行者の前世では、私は私を愛することの大切さには気づいていなかったようなので、今世は大事にしてあげようと思います。

もっと幸せにしてあげよう。

そして幸せな夢から目覚めよう!

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ゲート師匠の講話から(5)

21日(水)午前の講話では、色々な興味深いお話が次々と出てきました。

例えば…

 

仏教が菜食主義となった本当の理由

〇「相対性理論」の相対性原理を作用させているもの

〇空中浮遊について

放射線について

〇人の声の振動が水の分子構造を変える?!

 

面白い話がポンポンと飛び出すので、会場は始終、笑い声が響き、リラックスした雰囲気に包まれていました。

それでも最後の師匠の話が、多岐にわたったお話を、びしっと一つにまとめて下さいました。

 

(以下一部書き起こし)

…人間が潜在的に持っている能力は無限なのです。

私たちは何でもないようにいろんな考えを起こし、色んな事を言ってしまうが、私たち人間には無窮、無限の能力が潜在的にあるがために、自覚を通じて自分自身を発見し、成長させ、自らの能力を取り戻すべきなのです。

私の、自分の感覚を取り戻すべきです。

こういった事がとても重要なのです。

 

また何かを学ぶときには、すべての真理に対して謙遜であるべきです。

考えはいつでも変えることができます。

私が知っていることにあまりにも固執するなら、知っているというその枠にとらわれてしまうのです。

学びというのは限りないもの。

ですから

「常にオープンハート、開かれた心を持って頑張ろう。自慢することなく、傲慢でもなく、「私のものである」という主張を捨てて、自らの中で覚醒が起こるときまで、覚醒が一つ起こればまた別の覚醒のために、ずっと自覚し続けよう。」

こういう精神がとても必要なのです。

本当にしっかりここで勉強するぞと思えば、心の出家。

私が持っているものをすべて捨てるというのではなく、そこで留まることなく、もっと進んでいこうと言っているんです。

既存の自分の判断や価値観を無視しなさいと言っているのではありません。そこからもっと前に進もうと言っているのです。そしてもっと前進するべきだと言っているのです。

皆さん勉強してみれば何かが分かったような気持ちになって、人よりもずいぶん進んでいると思い込み、それを知らない人間を自分よりも劣ったものとみて、はなはだしくは、「私は全部分かった。」という風に思い込みますが、そういう時こそ、私自身を奮い立たせて、もっと前に進もうとするのです。

もっと、もっと大きく自分を開いて行こう。もっと悟っていこう、分かっていこう、目覚めていこう。全ての事を知った、分かったと思ったとしても、もっと素晴らしい、もっとすごい目覚め、悟りのために、留まることなく前進しよう。

そうしていけば皆さん自らが、完全なる意識の状態に入るようになっているのです。

その時には、「私は到達した。あの人たちはまだ到達できていない」絶対にそんな考えは起こりません。区分、違い、相対的なものはすべて無くなります。

それは何故か。

私の中にすべてそれがあるからです。

全てのものは私の一部分であるからです。

その一部分でさえも否定する必要がないがために、部分は部分としてとても貴重であると分かるがために、それをすべて認めて尊重することができるようになるのです。

これは私(ゲート師匠)が言ったからとか、(ここで)言葉で聞いたからではなく、皆さんが意識成長されたあかつきには、至極自然にそういう意識状態を持つようになるのです。

(書き起こし以上)

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すでにそうである大きな私に、いつでも気づいていたいです。

 

 

 

天国の風景

昨日、JRの駅構内で素敵なポスターを見ました。

これこれ!長野県の林の中でヨガをする吉永小百合さん。

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森林セラピー」というのがあるそうです。何とも気持ちがよさそうです。

私も、林の中を歩くのが好きなので、今日は「森林セラピー」気分で滝野すずらん公園に行ってみました。お花もたくさん咲いているはず!

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色とりどりのお花たちに迎えられました。

そして、早速森林セラピーです!(ただ散策するだけですが)

曇りのお天気でしたが、時折雲の切れ間から日の光が差し、林の中も明るくなります。

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公園の敷地はとても広いので、林の中を歩いていると、自分が一体どこにいるのか分からなくなるので、初めのうちは、時々スマホで位置確認したりしていたのですが、それも面倒になってきて、思いのままに歩くことにしました。

分かれ道があると、なんとなく「こっちに行ってみよう!」

小鳥の鳴き声が近いと、「こっちだ!」と近づいてみたり、気の向くまま、何も考えず…

それでも、どこに向かっていても、きれいな花や鳥や昆虫を見つけたりするので、ただ歩くだけでワクワクです。

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ヒマラヤの青いケシ「メコノプシス」!

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小さなくわがた!

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名前が分からないけれど、とても小さくてみずみずしいピンクの花。

 

こっちだよ。こっちだよ。と呼ばれる気がして草を分けて降りていくと…

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ルピナスとマーガレットの入り混じった広い広い花畑が目の前に現れました。

天国はこんな場所だろうか?と思える風景に感動しました。

 

林から出て美しく整備された場所に出ると、またまた、まさに天国の風景!

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こんな景色を見るたびに、私は本当はもう死んでいて、自分が死んだことに気付いていないのかもしれない……なんて思う事がよくあります。

たまたまその時に友人からラインに連絡が入ったので、

「私は今天国にいます」と写真を送ると、

「ほんとに天国だぁ~。なんどでも生まれ変わってるんだ、YUMIKOさん。素敵だね~」

というお返事が。

 

・・・そうなのかも知れない!

「死」っていうのは、本人の意識の状態から見たら、ただお隣のお部屋へ移っただけ、ただ場の移動みたいなものだから、生きているうちにだって、意識が大きく変われば、肉体をわざわざ殺さなくても、何度でも生まれ変われるのかもしれない!

と思いました。

何度でも天国を味わって、何度でも生き返って、楽しもう!と思える気づきでした。