判断を手放す
昨夜、寝る前にスマホで天気予報を見ると、明日の朝は晴れ、気温は低い予報。濃霧注意報が出ていた。
「もしかしたら明日の朝、雲海が発生するもしれないな。早起きして見に行こうかな」
そんな事を考えながら少しウキウキして眠りについた。
4時半に目が覚めて、カーテンを開けて窓の外を見てみると、どんよりとした曇り空だった。
霧も出ていなく雲海が発生するような条件は揃っていないし、こんな空なら日の出の太陽すら見る事は出来ないだろうと思った。
少しガッカリした。
まだ眠いのでベッドに潜り込もうとしたら、
「コーヒーを淹れて車に乗って出掛けてごらん」
と言われた気がした。
「いや、曇っているし、今日はやめとこう」
と返事をして、寝ようとすると
「コーヒーを淹れて車に乗ったら?
行ってみたら?せっかく起きたんだから」
と声が誘う。
「でも、あまり意味ない気がするな。空曇っていて暗いし、良い写真も撮れなさそう」
と心の中でぶつぶつ文句を言っていた。
それなのに身体は何故かヤカンにお水を入れて湯をわかし、コーヒーを淹れ始めた。
それでも心の中では、まだ、私のぶつぶつ文句が続いている。
眠い。
意味ない。
ガソリンの無駄。
どうせ晴れない。
でも…
まあ、いいか。
景色は期待出来ないけど、展望台でコーヒー飲むのも悪くない。
帰って来たら二度寝だなぁ。
そんな事を考えながら車に乗り込んだ。
少し車を走らせていると、雲間から青空も見え出した。
さっきまで諦めモードだった心も少しワクワクしてきた。車から見える空もだんだん美しくなってきた。
目的地に着いた時、
美しい朝日に感動した。
「来てみてよかったな」
美しい空を眺めながら飲むコーヒーも格別だった。
そして、帰り道、
車の中で流れていた「教師のためのマニュアル」
イエス兄はこんな事を話していた。
──自分は判断すべきでないと言うよりも、自分には判断などできないと言うことに、神の教師は気づく必要がある。判断を手放すにあたり、彼は単に、もとより自分が持っていなかったものを手放すに過ぎない。彼は幻想を手放すのである──
──あなたは今までに、自分が判断に必要な「事実」を全部知っていると思ったことが何度あったか、そしてそのあなたがいかに間違っていたか、思い出してみなさい!──
──叡智とは判断することでは無い。
それは判断を放棄することである。──
ドンピシャで笑うしかない😅
「あなたがいかに間違っていたか
思い出してみなさい!」
君自身の判断に任せていたら
君は今頃まだ
ベッドの中だったね。
こんな感動も味わうことはなかったな(笑)
そんな風に言われた気分…
朝の体験学習でした。
教師のためのマニュアル
「10.判断はどのようにして放棄されるのか」