17年前の日記から
単身赴任しているダンナくんが、
転勤する事になり、
現在、うちの一部屋が引っ越しの荷物の一時保管場所になっています…
ダンボールの山が少しずつ大きくなっていく…
不要なものもかなり入っているみたいなので、ひとつ箱を開いてみると…
私の昔の日記が出てきました🙄💦
息子が3歳、娘がまだ1歳未満で、
子育て大忙しの時期です😆
そんな日々の中、
子どもと過ごす中での気づきや、
子どもとの面白いやり取り、
日々の発見、
その頃出会った本の一節なんかが書いてあって、
「当時の私、頑張っていたなぁ」
と、しばし感慨にふけりました😌
私はちっとも文学少女ではなかったのですが、この日記の中に、
ヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』からの一節を見つけて、少し驚きました。
こんな本、読んだかなぁ?
でも、確か、
「…そして特に目を閉じたときに見えるぐるぐるまわる色彩の斑点などが……。」
多分、何でもないこの一文を読んだ時に、
「私も!私もそれ気になってたの!」
と共感した記憶があります😆♫
「神の使者」の著者ゲイリーが、
ヘルマン・ヘッセの「シッダルタ」に
影響を受けたと言っていたので、
それは読んでみたんですけどね😊
(これは面白かったです!)
なので、他の作品も読んでみたくなりました。
日記に書いてあった『庭仕事の愉しみ』からの一節を紹介しますね。
外界の内界
すでに幼い子どもの頃、私は絶えず自然の珍奇な形を眺める癖があった。それは観察すると言うのではなく、その独特な魔力に、複雑な深い言葉に没頭したのである。磨かれた長い木の根、岩石の中の多彩な条紋、水に浮かんだ油の斑紋、ガラスの中の亀裂 ––––その他似たようなすべてのものが私にとって時として大きな魔力を持った。とりわけ、水、火、煙、雲、ほこり、そして特に目を閉じたときに見えるぐるぐるまわる色彩の斑点などが……。
このような形象を見つめ、不合理で、複雑で、奇妙な自然の形に熱中していると、私たちの心と、そういう形象を成立させた意志とが一致するものであるという感じを持つようになる。
–––– そしてまもなく私たちはこれらの形象を、私たち自身の気分であり、自分たちの想像の産物であると考えたい誘惑を感じるようになる。–––– 私たちは自分たちと自然との間の境界が揺らぎ、溶けてしまうのを見、私たちの網膜に映る様々な形象が、外部からの印象によるものか、それとも私たちの内部から生じたものかわからないような気分になる。
私たちは、このような形象を見つめている場合ほど簡単容易に、私たちがどんなに熱心な創造者で、どんなに私たちの魂がいつも世界の絶え間ない表象の創造に関与しているか、という発見をすることはない。むしろ私たちの内部で働いている神性と自然の中に働いている神性とは同一不可分のものなのである。それゆえ、もし外界がほろんでしまうようなことがあっても、私たちのうちの誰かがその外界を再びつくりあげることができるであろう。山や川、木や葉、根や花など、自然界のあらゆる形成物は、私たちの内部にあらかじめ形成されて存在し、私たちの魂に由来するからである。その魂の本質は永遠の生命であり、その本質を私たちは感じ取れないけれど、たいていの場合、愛の力、および創造の力として感じられるものである。
ヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』より
なんだか、スゴイ…
ヘルマン・ヘッセは悟っていたんですね😌
余談ですが、このおばあちゃん、
テレビに出ていた絵描きさんなのですが、
そこにいるだけで周りがパッと明るくなるような、ホントに可愛くて素敵なおばあちゃんだったなぁ😊💕
天真爛漫な方でした♫