ゲート師匠の講話から(7)
毎日書こうと思っていたブログを3日もさぼっちゃいましたね。
面白い気づきや新しい試みもあって、書きたいことはたくさんあったのですが、やっぱり文章に書くという事が私にとっては未だに大ごとなんですよね。
もっと楽に考えて書くようにしたいなぁと思っています。
さて、名古屋ツアーのゲート師匠の講話もとうとう最終日です。
最終日(22日)の師匠は、お話に熱がこもっていて、迫力がありました。
私たちに「起きなさーい!」と呼び掛けていたのだと思います。
私は寝起きが良くないからなあ…まだいい夢見ていたい…もう少し寝ていたいなあ…
と思っているのかな。
(以下、講話書き起こし)
…さあ、そして、この私を目覚めさせるという勉強、ブッダとなるというこの勉強。
これが簡単そうに見えて難しいのです。
私たちは幼いころから長い間にわたってある教育というものを与えられてきました。多くの価値観や、社会的な通念、道徳的観念、そのようなものが私たちの遺伝因子の中にきちんとはまっているわけです。ですからこういうような状況を自分が受け入れているという事は本当に大変なんです。ですから目覚めるという事は、自覚するという事は本当に大きな事件なのです。
どのように例えたらいいかというと、その方法しか説明しようがないのですが…
「現実に対する否定」です。
「現実は夢である」
「幻想である」
だから昔の目覚めた人たちは「夢から覚めろ、目覚めろ!」といいます。
皆さん夢の中で、多くの出来事を経験することが出来ます。夢の中で人殺しもし、殺される直前まで行ったりもする。私が怒りに満ちて何かを追いかけることもあり、また、誰かに追われることもあります。悪い夢を見るとリアルな感覚を受けます。夢の中にもかかわらず冷や汗をかき、起きた後もまだ冷や汗をかいています。その余韻がすごく自分の中に残るでしょ?
「本当に夢の中で怖い事ひどいことが起こったよ!」
「私を苦しめたよ。本当に大変だった。」
しかし、起きてみれば、自分が目覚めてみれば、そのリアルな出来事は夢に過ぎなかったのです。
では…本当に夢にリアリティがありました。
ホントに恐ろしい人が追いかけてきて私を苦しめました。私は夢の中で怒りを抑えることが出来なかった。あまりにも怒りに駆られて、相手を刀で殺し続けました。
また、夢の中で、相手がとても美しい存在だった。私は夢の中で深い愛情にあふれ、これが永遠であるようにと祈りました。この瞬間がいつまでも続くように。しかし目覚めてみれば、夢でした。
さあ、夢の中に登場する「恐れ」「愛」「憤怒」これは皆さん、実在したのでしょうか?
夢は存在しましたが、現実に戻ってみたらそれは夢に過ぎなかったという事です。
じゃあ皆さん、ある人が皆さんを捕まえて、自分が前の日に見た悪夢についてずっと語ります。
「ほんとに恐ろしい奴だったんだよ。」
「本当に憎たらしい奴だったんだ。」
「ああ、あの人に自分は惚れ惚れしたよ。」
それを聞いて、
「ああ、そうなんだ。だけど、それは夢だよ。」
皆さん、本当はね、皆さんが肉体を離れると、その肉体を離れる瞬間、この現実は霊魂の観点から言ったら、本当に遠い日の夢のように感じます。
ここにおける波乱万丈の記憶、約百年ほどのこの波乱万丈の人生が、肉体を離れた瞬間に、一夜の夢のように感じるのです。
ずっと続けて何かが行われるという事はないのです。
皆さん、悪夢を見ると、その日一日、とても深く記憶に残っています。その次の日まで残っているかもしれない。何日間か、時間を過ぎても、記憶が残っている人もいます。
しかしそれは「夢である」という記憶を持っているにすぎません。
どんなに長い間、自分の記憶として持っていたとしても、それは夢としての記憶であるように、皆さんが生きていた80年90年といった人生は、肉体を離れた瞬間、夢となってしまうのです、皆さん。
これが現実であり、真実なのです。
じゃあ、皆さん。(もしかしたら)80年90年も生きられないかも知れない。今、今日死んでしまう人もいるかもしれないのです。
自分たちが計画立てて生きてきた人生が、人生が30年40年として記憶されるのではなく、私たちが一夜の夢を見るように、たった一つの夢として記憶されるという事なのです。
何十年もの人生が、たった一つの記憶に過ぎなくなるのです。
皆さん、これは事実であり現実です。皆さんが認めようが認めまいがそれは事実です。皆さんが死を受け入れようが受け入れまいが皆さんは死ななければならないように。
「それは違うと思います」というどのような反論をしたとしても、死は避けては通れないように、皆さんの人生が一夜の夢に過ぎないという真実が変わることはないのです。
この事実、現実に対して、皆さんはよく考えてみるべきです。
(中略)
皆さん夢を見るとき、自分の意識がなくなるでしょ。夢の中でもそのままのしっかりとした意識を保って夢に入っていくという人はいないでしょ。
皆さん方はしていないから分からないだろうけれども、実はそれも可能なんですよ。24時間、夢の中にはまり込まずに、ずっと目覚めた意識でいるという事は出来ます。
とにかく皆さんは寝た時、ある瞬間に意識がなくなるでしょ。それはほんの一時なんですよ。
寝たら夢が始まるように、皆さんが肉体を離れたら、天国では、ちょっとの間意識を失って、また目覚めるのです。そうするとまた別の意識活動が始まるのです。
それこそが霊的な世界です。
しかし90%の人たちは、自分が死んだという事実に気が付きません。また、死んだという事を受け入れたとしても、
「え?私、死んじゃったわけ?」
「私、本当に死んじゃったのかしら?」
そのような考えを少しの間していますが、生きていた時のような「死という概念」を受け入れることはありません。
なぜなら、生きている間には、「死」というものはすべての事が終わってしまう事である、何も分からないし全てが暗闇だ、死ねばそれまで…と、そのようにずっと学び続けてきました。
そのように理解をしてきましたし、皆さん方が(死を)もっと深く知ろうとせずに、その概念をそのまま受け入れてきたがために、私に、今、意識活動があって、考えが起こってくるのですから、死んだという概念を当然受け入れることが出来ません。
それで、肉体を離れた霊魂に、
「あなたは死んだんですよ」と言うと…
(例えば)今皆さんに、「これは本当は夢なんだよ。夢を見ているだけなんだ。」
(と言っても)皆さんはその言葉を受け入れることが出来ますか?
つねったら痛いし、飲むこともできれば感じることもできる。
見えるし、聞こえるし、考えることもできるのに、どうして私が死んだといえるんだ?
これは扇子でしょ?扇子。これがどうして夢なんだ?
そのように反応するでしょ?
皆さん方が本気で、皆さん方の現実を冷徹に直視すれば、
これを夢と認識し、新たな自覚の意識を持つという事は難しい事ではありません。
しかし、習慣、固定観念、強迫観念、それから抜け出すということがとても大変なのです。
そこで、皆さん方は、そういうことを知りつつ、数千回、多い人は数万回、ずっと転生を繰り返し続けているのです。
そこから抜け出る道は、徹底してこの現実を直視し、生まれて死ぬこと、ここに対して自らがもっと現実的に感じてみることなのです。
生と死について、もっとしっかりと考える必要があります。
生きるとは何か、死とは何か?
死とはいつ私におこることなのか?
それは私にいかなる結果をもたらすか?
であれば、死がいついかなる状態で私に来るかわからないのに、
生きている間に私は何をするべきなのか?
皆さん方、寝る前に自分の現実というものをきちんと置いておいて、しっかりそれを見つめ、探究する必要があるという事です。
そうしてこそ、皆さん方はそこから抜け出ることが出来るのです。
皆さん方がきちんと見つめて、探究したときに、皆さん方が目覚め始めるのです。
「ああ、私は~のように生きるべきなんだ。」
「生きている間に、これをするべきなんだ。」
そういう明確な価値観が生じるがために、その明確な価値観をもって、完全に違った人生を生きるべきなのです。
しかしその人生は、まず「否定」から始まるという事なのです。
すなわち、現実的に持っている自分の観念や価値観、そういうようなものを思いっきり無視するしかないのです。(後略)
(書き起こし以上)
私自身、何か「いい事思いついた!」とひらめいたとしても、
大抵は、
「そんなことやる意味ないよ」
「めんどうだな」
「恥ずかしいよ…」
「そんなこと出来るわけがないよ」
「きっとうまくはいかない」
「今はお金がないから、いつかね!」
「子どもがいるから無理!」
など、心の中で色々な声が飛び交います。
これらの声が、師匠の言う「現実に持っている自分の観念や価値観」であり、これらを断固否定し、無視するところから始めてみるべきなのでしょうね。
実際、ちょっと勇気を出して小さなところからやってみると、
「あら、なんという事はなかったな」
「良く分からないけど、うまくいっちゃった!」
なんてことになったりもします。
もちろん、「失敗」に見える羽目にもなったりしますが、それは、「いい体験したな」と捉えれば、「失敗」もただの「体験」になりますし…(あとから、笑い話や武勇伝になったりもしますwww!)
「これは私の夢!」
このように現実をとらえることが出来たとき、これまでとは逆に、恐れなしにしっかりと自分の人生を創り出していけるのだと思います。
実践あるのみです(≧▽≦)!