赤い服
昨夜は、音楽仲間と一緒に、地域のチャリティーイベントに参加しました😊♫
数日前の練習の時に、
「衣装どうする?」
という話になりました。
今回は参加メンバーが多く(と言っても5人ですが)いつも使っている衣装を使い回すという事も出来なかったので、もも◯ロちゃんみたいに、一人ひとりカラーを決めようと言う事になったんです。
赤、ピンク、青、黄色、緑。
そのカラーをトップスにして、ボトムスは黒で統一することに。
で、私はというと
「赤」になったんです。
「赤」い服、持ってないな…
物心ついてからこれまで、赤い服は殆ど着たことがないんですよね。
(あ、そういえば結婚式のドレスは赤だった!)
赤い服って、どこから見ても
バーン‼️
と目立つので、避けてきたのかも知れません。
自分に赤は似合わないと思っていたし。
でも今回は、「衣装」だから!という気持ちが後押しして、「赤い服」もいいかも!と思えました。
せっかくなので、明るく目立つ赤い服を購入しました😊♫
そして昨日、その「赤い服」でステージに上がりました。
鮮やかな赤い色が、常に自分の視界にあると、元気になってきますね(牛か?)!
やる気が自然と湧いてきます!
赤い服は「勝負服」として活用する人もいるくらいですから、昨日のステージは何だかいつも以上に度胸良く行けた気がするのです😆♫
MCも演奏もバッチリでした😊!
ま、自己満足ですが、楽しかったのでOKです。
何を着ていても(着ていなくても‼︎)平常心でいられるというのが私の理想なので、色々な服にチャレンジしてみるのもいいかなと思いました。
さて、この赤い服、次回はいつ何処で活躍してくれるのでしょうか?
これは娘が1歳の頃。
赤い服かわいいな💕
最近は娘も赤い服、着ていませんね。
すっかり恥ずかしがり屋さんに成長しました。
それにしても、このお面…😂
黒澤一樹トークライブ『TAO』に行ってきました!
昨日、黒澤一樹さんこと、雲黒斎さんのトークライブに行ってきました。
一年ぶりです!
最高に暑い札幌でしたが、黒斎さんは相変わらず爽やかな笑顔で迎えて下さいました。
今回は新刊『ラブ、安堵、ピース』を元に、「内田裕也ばりにロックな老子(黒斎さん談)」の思想についてのお話でした。
お話の内容を整理して、ここに書き残そうと試みはしたものの、私の脳みそではまとめきれない事が判明したので、黒斎さんのブログから、トークライブで語られていた内容をいくつかピックアップしてみましたので、こちらをご覧下さいね。
もちろん、ご興味のある方は、『ラブ、安堵、ピース』を是非ともご購入して読んで下さいね。
黒斎さんのブログ「スピリチュアル解体新書」から
現実
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/04ba5fd1a97c4e702e808971e5723cbe
物我対立
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/94868968b4c174457a786d667bc5b674
世界の全貌
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/f256c150d4aec92bf70419f44810c35e
求めている事
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/50ed7f794510f382143847a3eac4383a
「物の世界」と「空間の世界」
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/42d87116658b7b5f41ec890fe663a619
具体と抽象
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/2f3493c3c693a89a555ba5e73c662464
具体の世界は分別の世界、分離の世界。
抽象の世界は無分別の世界、ありのままの世界。ここに至福がある‼︎
ということで、ツーショット写真も抽象度をあげてみました😆♫
抽象度が上がると目尻のシワも無くなる😊♫
あー、幸せ❤️
幻の第2回目ライブ朗読配信
昨日は札幌市手稲区にある「前田森林公園」から第2回目のライブ配信を行いました。
快晴でそよ風の気持ちいい公園内は、人もまばらで絶好のライブ日和。
あまりに気持ちいいので、笛まで吹いちゃいました♫
下手なんですけどね〜。最近は怖いものなしです😆
突然の配信にも関わらず、たくさんの方が見て下さいました。本当に有り難いことです!
先日もライブで読んだ津留さんの「多くの人が、この本で変わった」から、14章 「何を選択するか」を読みました。
津留さんの言葉が私の意識を内面に向かわせてくれます。
「人は信じている世界を見ている」
「あなたの現実は、あなたの選択の結果にすぎません」
「幸せは、選択する事によって得られます」
「ある考えが正しいか否かの判断には、どんな意味もありません。あなたの選択した考え方が、あなたの真実となってきます」
こういった内容の朗読をお届けしました。
自宅に帰ってから、たくさん頂いていたコメントにお返事を書いて、その後、ライブ朗読の再生リストを作ったんです。
そのリストに、先日展望台からお届けした動画と、撮ってきたばかりの前田森林公園での動画を加えました。
何故か間違えて、そこに今日の動画が2つ入ってしまったので、「一つは削除してと…」と思い、「リストから削除」のつもりでポチッとすると…
その動画自体が削除されちゃったんです‼️
え?
私、消しちゃった?
あらら、
こんな事が起こるなんて…
まあ…
しょうがない。
でも、コメントも消えてしまったのが切なかったです。
でも、以前の私なら罪悪感でいっぱいになっていたでしょうが、
「起こる事が起こっただけだ」と思えるまでになりました。
まあ、事の大きさにもよるでしょうけど、この程度なら大丈夫な自分になりました。
「事は起こった」
「で、次どうしようか?自分に出来る事は?」
「あ、もう一度ライブ配信しよう!自宅からやって見よう!どんな風にしたらいいかな?」
と、何だか楽しくなってきて…
事態を楽しんでいる自分がいました。
「今夜、ウチから配信するから、ちょっと静かにしていてね」
「この ''コリラックマ'' ちょっと貸してね」
と娘の協力も得て、無事に配信出来ました!
おわびLive 朗読(7/13)「多くの人が、この本で変わった。」
結果的には、2回目配信を見る事が出来なかった方々にもライブで朗読を聴いて頂けましたし、私自身もいろいろな気付きがありましたし、2回も皆さんとの共有の時間を楽しむ事が出来て、いい事尽くめでした!
皆さんにホントに感謝です😊❤️
「ある考えが正しいか否かの判断には、どんな意味もありません。あなたの選択した考え方が、あなたの真実となってきます」
津留さんの言っている事は本当だと心底感じた昨日の出来事でした。
えびす岩
小樽の隣街、余市町の海には不思議な形の岩がいくつかあります。
一番有名なのは「ローソク岩」かな?
これです⇩
どんな嵐の日にも、ここで、凛とした姿で立ち続けていたのでしょうね。
カッコいいです。
私はこの「ローソク岩」しか、実物をじっくり見た事がありませんでした。
先日ネットで「えびす岩」という名の岩の写真が投稿されているのを見たんです。
これが面白い形‼︎ なんか不思議!
「コロンブスのたまご」みたいな感じなんです。
直ぐに実物を見に行きました。
車で40分位かな?
「えびす岩」に向かう脇道を通り越してしまい、Uターンしたりしましたが、
有りました!
これです⇩
以外と小ぶりで可愛らしい岩でした。
今にも、コテっと倒れてしまいそうですよね。
あとどのくらいこの景色が見られるのでしょう?
ここから見る朝日はとても美しいそうです。
今朝、この岩の事を
黒澤一樹(雲黒斎)さんの「ラブ、安堵、ピース」
を読んでいて、思い出していました。
(p114から抜粋)
第43章 言葉なき教え
この世で最も柔らかいものが、最も硬いものを押し貫く。
形無き水が、硬い岩盤のような隙間のないところにも染み入っていけるようにね。
僕はそこから、しなやかで、形にとらわれない「無為なる生き方」の有益さを知った。
「無為」という、言葉のない教えに及ぶものなど、この世にはほとんどないんだ。
(抜粋以上)
ラブ、安堵、ピース 東洋哲学の原点 超訳『老子道徳経』 | 黒澤 一樹 |本 | 通販 | Amazon
個の私は、何でも「作為」でこなそうとしていますが、本当は「無為」というのが全体性にとっては一番有益なのでしょうね。
何もしないという訳ではなく、誰かの為、自分の為 、未来の為、というのでもなく、ふと意識に上ったことを受け止め、素直に動きながら(動かないという行いも含めて)、自分らしく幸せに日々生きていくという事なのかな、と思っています。
今週土曜日に札幌で、黒斎さんのトークライブが催されるんです♫
昔から彼の大ファンである私はもちろん行きます!
とても楽しみです😊‼︎
そうそう、昨日はこんなスゴイ景色も堪能できました!
奇跡の1日だったなあ〜😊♫
小樽がすっぽりと雲のベールに覆われていました。
トンネルがくれた気付き
一人でドライブするのが好きです。
キレイな景色を眺めながら…
好きな音楽を聴きながら…
頭の中で大きな自分と会話しながら…
そんなドライブは、私を普段のしがらみから、役割から解放して、素の私に戻してくれます。
北海道は町から町の距離が離れていて、民家がない場所、山や海しか見えないという所がほとんどなので、ドライブするには最適です😊!
山道を走るとトンネルもたくさんあるのですが、私はよく、トンネルを抜けた後、車のヘッドライトを消し忘れてしまうんです。
お間抜けだな〜といつも感じてました。
北海道の山のトンネルは結構長いんですよね(言い訳?)
トンネルを抜けても、昼間の明るさの中、ヘッドライトを煌煌と照らしてしばらく走ることになってしまうんです。
(別にどうでもいいのですがね…でもチョット目立ってて、気づいた時に恥ずかしい気持ちになります😣)
以前の車は暗くなると自動点滅してくれるタイプだったので、あまり気にした事はなかったのです。
それに慣れてしまっていたからなのか、
それとも、記憶力が悪すぎるからなのか、
はたまた思考が多すぎて忘れてしまうのか、
いや、トンネルが長いせいなのか…
原因は多々考えられますが、
「もう、なんで忘れちゃうのかな?」
といつも自分に突っ込みをいれてました。
トンネルに入る度、また消し忘れるかも…と思い少し緊張します。
自分にとっては他の思考が入ってこないように、緊張して頭の中を見張っている感じになってました。
それでも消し忘れる事があって、
「私の脳みそヤバいかも!」
と嫌な気分になってました。
ところが先日、よく効くいい方法を発見したんです!
それは…
ただ、トンネルに入る時に
「トンネルを出る時にライトを消す」と決める事。
ふっと頭に浮かんだことだったのですが、実際にやってみると(口に出していってみました!)他の事を考えていても、出口でちゃんとライトの事に気付けるんです!
あら不思議〜!簡単!
これまでの私は、「自分はライトも消し忘れる情け無い奴だ」とか「また、忘れるかも」などと自分を疑っていたんですが、
ホントにその思いの通りの現実を創っていたんだ!
と気付きました。
「自分の思いが現実を創っている」
という知識はすでに私の中にあって、理解もしているつもりでいたのに、体験には結びついていなかったんだと分かりました。
「ただ、決める」
これは応用範囲が広そうでワクワクしてきます。
それなら、いっそのこと
「私は神の子である!」
と100パーセント決めちゃいなよと思ったのですが、イエスのようには言えない自分がいます。(そうは言っても思いの通りの現実を誰もが等しく創っている事には変わりないですよね)
それでも、自分の在り方を意図し、決め続けていけば到達出来るのかも、という気持ちになってきました。
「ただ、決める」
意図するという事だけが必要みたいです。
Live配信やってみました!
「亜麻の花畑」Live配信に味をしめて、「朗読でも配信してみたい」と心の隅っこの方で思っていました。
日曜日、娘の学校祭を見てきた帰り道に(都会ではあり得ない山道を歩くのですが)あまりにお天気が良くて、高台から見下ろす景色があまりに美しくて、突然、
「Live配信、今日やらずにいつやるというんだ!」
というワクワクした気持ちになりました。
帰り道の私の頭の中は、何が必要?何を読む?どうやって事前お知らせをする?何時に開始する?などという事で、エンジン全開脳みそフル活動。
家に帰り着くなり、昔使ってたカメラの頑丈な三脚を押入れから引っ張り出し、スマホを固定できるように切って貼っての工作をして…
読む本は大好きな津留さんのに決めて、直ぐにお知らせ動画を撮って、アップして…
すぐさま車に乗って撮影場所の展望台に向かって…
いつもは人がいない展望台には…
今日に限って人がいる!
(あ、今日はお天気の良い日曜日だった😓)
でも時間が無いので人の事は気にせず、直ぐに三脚を立てて、スマホをセットして、本を準備して…
少し読む練習して…とやってたら、人も途絶え、開始予定時刻の5分前。
カメラのアングルを決めて、配信準備して、心臓もドキドキ💓
どうか配信の間は誰も来ませんように。
で、配信開始!
Live朗読 「多くの人がこの本で変わった」(1週間で削除します。7月16日まで)
最後の方で、大きな黒いワンちゃんを連れた年配の女性が来ましたが、ワンちゃんも大人しく、女性も私に気を使って直ぐに帰って下さり(ホント申し訳なかったです)無事終了。
終了直後も人がやってきて…これはセーフ!
いつも以上に賑わっていた展望台でした。
Liveにお付き合いして下さった方々、ホントにありがとうございました😊♫
(接続不良で途絶えてしまった所もあったようで、ゴメンなさい。)
また、後から録画を見て下さった方もたくさんいて、また、コメントもたくさん頂きました。とてもとても嬉しいです💕ありがとうございます。
また、良い景色の中のLive配信にチャレンジしたいと思います。
どうかまた、お付き合い下さいね😊!
ゲート師匠の講話から(7)
毎日書こうと思っていたブログを3日もさぼっちゃいましたね。
面白い気づきや新しい試みもあって、書きたいことはたくさんあったのですが、やっぱり文章に書くという事が私にとっては未だに大ごとなんですよね。
もっと楽に考えて書くようにしたいなぁと思っています。
さて、名古屋ツアーのゲート師匠の講話もとうとう最終日です。
最終日(22日)の師匠は、お話に熱がこもっていて、迫力がありました。
私たちに「起きなさーい!」と呼び掛けていたのだと思います。
私は寝起きが良くないからなあ…まだいい夢見ていたい…もう少し寝ていたいなあ…
と思っているのかな。
(以下、講話書き起こし)
…さあ、そして、この私を目覚めさせるという勉強、ブッダとなるというこの勉強。
これが簡単そうに見えて難しいのです。
私たちは幼いころから長い間にわたってある教育というものを与えられてきました。多くの価値観や、社会的な通念、道徳的観念、そのようなものが私たちの遺伝因子の中にきちんとはまっているわけです。ですからこういうような状況を自分が受け入れているという事は本当に大変なんです。ですから目覚めるという事は、自覚するという事は本当に大きな事件なのです。
どのように例えたらいいかというと、その方法しか説明しようがないのですが…
「現実に対する否定」です。
「現実は夢である」
「幻想である」
だから昔の目覚めた人たちは「夢から覚めろ、目覚めろ!」といいます。
皆さん夢の中で、多くの出来事を経験することが出来ます。夢の中で人殺しもし、殺される直前まで行ったりもする。私が怒りに満ちて何かを追いかけることもあり、また、誰かに追われることもあります。悪い夢を見るとリアルな感覚を受けます。夢の中にもかかわらず冷や汗をかき、起きた後もまだ冷や汗をかいています。その余韻がすごく自分の中に残るでしょ?
「本当に夢の中で怖い事ひどいことが起こったよ!」
「私を苦しめたよ。本当に大変だった。」
しかし、起きてみれば、自分が目覚めてみれば、そのリアルな出来事は夢に過ぎなかったのです。
では…本当に夢にリアリティがありました。
ホントに恐ろしい人が追いかけてきて私を苦しめました。私は夢の中で怒りを抑えることが出来なかった。あまりにも怒りに駆られて、相手を刀で殺し続けました。
また、夢の中で、相手がとても美しい存在だった。私は夢の中で深い愛情にあふれ、これが永遠であるようにと祈りました。この瞬間がいつまでも続くように。しかし目覚めてみれば、夢でした。
さあ、夢の中に登場する「恐れ」「愛」「憤怒」これは皆さん、実在したのでしょうか?
夢は存在しましたが、現実に戻ってみたらそれは夢に過ぎなかったという事です。
じゃあ皆さん、ある人が皆さんを捕まえて、自分が前の日に見た悪夢についてずっと語ります。
「ほんとに恐ろしい奴だったんだよ。」
「本当に憎たらしい奴だったんだ。」
「ああ、あの人に自分は惚れ惚れしたよ。」
それを聞いて、
「ああ、そうなんだ。だけど、それは夢だよ。」
皆さん、本当はね、皆さんが肉体を離れると、その肉体を離れる瞬間、この現実は霊魂の観点から言ったら、本当に遠い日の夢のように感じます。
ここにおける波乱万丈の記憶、約百年ほどのこの波乱万丈の人生が、肉体を離れた瞬間に、一夜の夢のように感じるのです。
ずっと続けて何かが行われるという事はないのです。
皆さん、悪夢を見ると、その日一日、とても深く記憶に残っています。その次の日まで残っているかもしれない。何日間か、時間を過ぎても、記憶が残っている人もいます。
しかしそれは「夢である」という記憶を持っているにすぎません。
どんなに長い間、自分の記憶として持っていたとしても、それは夢としての記憶であるように、皆さんが生きていた80年90年といった人生は、肉体を離れた瞬間、夢となってしまうのです、皆さん。
これが現実であり、真実なのです。
じゃあ、皆さん。(もしかしたら)80年90年も生きられないかも知れない。今、今日死んでしまう人もいるかもしれないのです。
自分たちが計画立てて生きてきた人生が、人生が30年40年として記憶されるのではなく、私たちが一夜の夢を見るように、たった一つの夢として記憶されるという事なのです。
何十年もの人生が、たった一つの記憶に過ぎなくなるのです。
皆さん、これは事実であり現実です。皆さんが認めようが認めまいがそれは事実です。皆さんが死を受け入れようが受け入れまいが皆さんは死ななければならないように。
「それは違うと思います」というどのような反論をしたとしても、死は避けては通れないように、皆さんの人生が一夜の夢に過ぎないという真実が変わることはないのです。
この事実、現実に対して、皆さんはよく考えてみるべきです。
(中略)
皆さん夢を見るとき、自分の意識がなくなるでしょ。夢の中でもそのままのしっかりとした意識を保って夢に入っていくという人はいないでしょ。
皆さん方はしていないから分からないだろうけれども、実はそれも可能なんですよ。24時間、夢の中にはまり込まずに、ずっと目覚めた意識でいるという事は出来ます。
とにかく皆さんは寝た時、ある瞬間に意識がなくなるでしょ。それはほんの一時なんですよ。
寝たら夢が始まるように、皆さんが肉体を離れたら、天国では、ちょっとの間意識を失って、また目覚めるのです。そうするとまた別の意識活動が始まるのです。
それこそが霊的な世界です。
しかし90%の人たちは、自分が死んだという事実に気が付きません。また、死んだという事を受け入れたとしても、
「え?私、死んじゃったわけ?」
「私、本当に死んじゃったのかしら?」
そのような考えを少しの間していますが、生きていた時のような「死という概念」を受け入れることはありません。
なぜなら、生きている間には、「死」というものはすべての事が終わってしまう事である、何も分からないし全てが暗闇だ、死ねばそれまで…と、そのようにずっと学び続けてきました。
そのように理解をしてきましたし、皆さん方が(死を)もっと深く知ろうとせずに、その概念をそのまま受け入れてきたがために、私に、今、意識活動があって、考えが起こってくるのですから、死んだという概念を当然受け入れることが出来ません。
それで、肉体を離れた霊魂に、
「あなたは死んだんですよ」と言うと…
(例えば)今皆さんに、「これは本当は夢なんだよ。夢を見ているだけなんだ。」
(と言っても)皆さんはその言葉を受け入れることが出来ますか?
つねったら痛いし、飲むこともできれば感じることもできる。
見えるし、聞こえるし、考えることもできるのに、どうして私が死んだといえるんだ?
これは扇子でしょ?扇子。これがどうして夢なんだ?
そのように反応するでしょ?
皆さん方が本気で、皆さん方の現実を冷徹に直視すれば、
これを夢と認識し、新たな自覚の意識を持つという事は難しい事ではありません。
しかし、習慣、固定観念、強迫観念、それから抜け出すということがとても大変なのです。
そこで、皆さん方は、そういうことを知りつつ、数千回、多い人は数万回、ずっと転生を繰り返し続けているのです。
そこから抜け出る道は、徹底してこの現実を直視し、生まれて死ぬこと、ここに対して自らがもっと現実的に感じてみることなのです。
生と死について、もっとしっかりと考える必要があります。
生きるとは何か、死とは何か?
死とはいつ私におこることなのか?
それは私にいかなる結果をもたらすか?
であれば、死がいついかなる状態で私に来るかわからないのに、
生きている間に私は何をするべきなのか?
皆さん方、寝る前に自分の現実というものをきちんと置いておいて、しっかりそれを見つめ、探究する必要があるという事です。
そうしてこそ、皆さん方はそこから抜け出ることが出来るのです。
皆さん方がきちんと見つめて、探究したときに、皆さん方が目覚め始めるのです。
「ああ、私は~のように生きるべきなんだ。」
「生きている間に、これをするべきなんだ。」
そういう明確な価値観が生じるがために、その明確な価値観をもって、完全に違った人生を生きるべきなのです。
しかしその人生は、まず「否定」から始まるという事なのです。
すなわち、現実的に持っている自分の観念や価値観、そういうようなものを思いっきり無視するしかないのです。(後略)
(書き起こし以上)
私自身、何か「いい事思いついた!」とひらめいたとしても、
大抵は、
「そんなことやる意味ないよ」
「めんどうだな」
「恥ずかしいよ…」
「そんなこと出来るわけがないよ」
「きっとうまくはいかない」
「今はお金がないから、いつかね!」
「子どもがいるから無理!」
など、心の中で色々な声が飛び交います。
これらの声が、師匠の言う「現実に持っている自分の観念や価値観」であり、これらを断固否定し、無視するところから始めてみるべきなのでしょうね。
実際、ちょっと勇気を出して小さなところからやってみると、
「あら、なんという事はなかったな」
「良く分からないけど、うまくいっちゃった!」
なんてことになったりもします。
もちろん、「失敗」に見える羽目にもなったりしますが、それは、「いい体験したな」と捉えれば、「失敗」もただの「体験」になりますし…(あとから、笑い話や武勇伝になったりもしますwww!)
「これは私の夢!」
このように現実をとらえることが出来たとき、これまでとは逆に、恐れなしにしっかりと自分の人生を創り出していけるのだと思います。
実践あるのみです(≧▽≦)!