ÉMAncipé

自分をもっと解放していきたい 朗読者EMAの日々

えびす岩

小樽の隣街、余市町の海には不思議な形の岩がいくつかあります。

一番有名なのは「ローソク岩」かな?

これです⇩

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 どんな嵐の日にも、ここで、凛とした姿で立ち続けていたのでしょうね。

カッコいいです。

 

私はこの「ローソク岩」しか、実物をじっくり見た事がありませんでした。

 

先日ネットで「えびす岩」という名の岩の写真が投稿されているのを見たんです。

これが面白い形‼︎ なんか不思議!

コロンブスのたまご」みたいな感じなんです。

直ぐに実物を見に行きました。

車で40分位かな?

「えびす岩」に向かう脇道を通り越してしまい、Uターンしたりしましたが、

有りました!

これです⇩

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以外と小ぶりで可愛らしい岩でした。

今にも、コテっと倒れてしまいそうですよね。

あとどのくらいこの景色が見られるのでしょう?

 

ここから見る朝日はとても美しいそうです。

 

 

今朝、この岩の事を

黒澤一樹(雲黒斎)さんの「ラブ、安堵、ピース」

を読んでいて、思い出していました。

 

(p114から抜粋)

 

第43章 言葉なき教え

 

この世で最も柔らかいものが、最も硬いものを押し貫く。

形無き水が、硬い岩盤のような隙間のないところにも染み入っていけるようにね。

僕はそこから、しなやかで、形にとらわれない「無為なる生き方」の有益さを知った。

「無為」という、言葉のない教えに及ぶものなど、この世にはほとんどないんだ。

 

(抜粋以上)

 

ラブ、安堵、ピース 東洋哲学の原点 超訳『老子道徳経』 | 黒澤 一樹 |本 | 通販 | Amazon

 

個の私は、何でも「作為」でこなそうとしていますが、本当は「無為」というのが全体性にとっては一番有益なのでしょうね。

何もしないという訳ではなく、誰かの為、自分の為 、未来の為、というのでもなく、ふと意識に上ったことを受け止め、素直に動きながら(動かないという行いも含めて)、自分らしく幸せに日々生きていくという事なのかな、と思っています。

 

今週土曜日に札幌で、黒斎さんのトークライブが催されるんです♫

昔から彼の大ファンである私はもちろん行きます!

とても楽しみです😊‼︎

 

 

 

そうそう、昨日はこんなスゴイ景色も堪能できました!

奇跡の1日だったなあ〜😊♫


毛無峠から見た雲海(小樽市)

 小樽がすっぽりと雲のベールに覆われていました。

 

 

 

 

 

トンネルがくれた気付き

一人でドライブするのが好きです。

 

キレイな景色を眺めながら…

好きな音楽を聴きながら…

頭の中で大きな自分と会話しながら…

そんなドライブは、私を普段のしがらみから、役割から解放して、素の私に戻してくれます。

 

北海道は町から町の距離が離れていて、民家がない場所、山や海しか見えないという所がほとんどなので、ドライブするには最適です😊!

 

山道を走るとトンネルもたくさんあるのですが、私はよく、トンネルを抜けた後、車のヘッドライトを消し忘れてしまうんです。

 

お間抜けだな〜といつも感じてました。

 

北海道の山のトンネルは結構長いんですよね(言い訳?)

トンネルを抜けても、昼間の明るさの中、ヘッドライトを煌煌と照らしてしばらく走ることになってしまうんです。

(別にどうでもいいのですがね…でもチョット目立ってて、気づいた時に恥ずかしい気持ちになります😣)

 

以前の車は暗くなると自動点滅してくれるタイプだったので、あまり気にした事はなかったのです。

それに慣れてしまっていたからなのか、

それとも、記憶力が悪すぎるからなのか、

はたまた思考が多すぎて忘れてしまうのか、

いや、トンネルが長いせいなのか…

原因は多々考えられますが、

「もう、なんで忘れちゃうのかな?」

といつも自分に突っ込みをいれてました。

 

トンネルに入る度、また消し忘れるかも…と思い少し緊張します。

自分にとっては他の思考が入ってこないように、緊張して頭の中を見張っている感じになってました。

それでも消し忘れる事があって、

「私の脳みそヤバいかも!」

と嫌な気分になってました。

 

ところが先日、よく効くいい方法を発見したんです!

それは…

 

 

ただ、トンネルに入る時に

「トンネルを出る時にライトを消す」と決める事。

 

ふっと頭に浮かんだことだったのですが、実際にやってみると(口に出していってみました!)他の事を考えていても、出口でちゃんとライトの事に気付けるんです!

あら不思議〜!簡単!

 

これまでの私は、「自分はライトも消し忘れる情け無い奴だ」とか「また、忘れるかも」などと自分を疑っていたんですが、

ホントにその思いの通りの現実を創っていたんだ!

と気付きました。

 

 

「自分の思いが現実を創っている」

という知識はすでに私の中にあって、理解もしているつもりでいたのに、体験には結びついていなかったんだと分かりました。

 

「ただ、決める」

これは応用範囲が広そうでワクワクしてきます。

 

それなら、いっそのこと

「私は神の子である!」

と100パーセント決めちゃいなよと思ったのですが、イエスのようには言えない自分がいます。(そうは言っても思いの通りの現実を誰もが等しく創っている事には変わりないですよね)

 

それでも、自分の在り方を意図し、決め続けていけば到達出来るのかも、という気持ちになってきました。

「ただ、決める」

意図するという事だけが必要みたいです。

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Live配信やってみました!

「亜麻の花畑」Live配信に味をしめて、「朗読でも配信してみたい」と心の隅っこの方で思っていました。

 

日曜日、娘の学校祭を見てきた帰り道に(都会ではあり得ない山道を歩くのですが)あまりにお天気が良くて、高台から見下ろす景色があまりに美しくて、突然、

「Live配信、今日やらずにいつやるというんだ!」

というワクワクした気持ちになりました。

帰り道の私の頭の中は、何が必要?何を読む?どうやって事前お知らせをする?何時に開始する?などという事で、エンジン全開脳みそフル活動。

家に帰り着くなり、昔使ってたカメラの頑丈な三脚を押入れから引っ張り出し、スマホを固定できるように切って貼っての工作をして…

読む本は大好きな津留さんのに決めて、直ぐにお知らせ動画を撮って、アップして…

すぐさま車に乗って撮影場所の展望台に向かって…

 

いつもは人がいない展望台には…

今日に限って人がいる!

(あ、今日はお天気の良い日曜日だった😓)

 

でも時間が無いので人の事は気にせず、直ぐに三脚を立てて、スマホをセットして、本を準備して…

少し読む練習して…とやってたら、人も途絶え、開始予定時刻の5分前。

カメラのアングルを決めて、配信準備して、心臓もドキドキ💓

 

どうか配信の間は誰も来ませんように。

 

で、配信開始!


Live朗読 「多くの人がこの本で変わった」(1週間で削除します。7月16日まで)

 

 

最後の方で、大きな黒いワンちゃんを連れた年配の女性が来ましたが、ワンちゃんも大人しく、女性も私に気を使って直ぐに帰って下さり(ホント申し訳なかったです)無事終了。

終了直後も人がやってきて…これはセーフ!

いつも以上に賑わっていた展望台でした。

 

Liveにお付き合いして下さった方々、ホントにありがとうございました😊♫

(接続不良で途絶えてしまった所もあったようで、ゴメンなさい。)

また、後から録画を見て下さった方もたくさんいて、また、コメントもたくさん頂きました。とてもとても嬉しいです💕ありがとうございます。

 

また、良い景色の中のLive配信にチャレンジしたいと思います。

どうかまた、お付き合い下さいね😊!

 

 

 

ゲート師匠の講話から(7)

毎日書こうと思っていたブログを3日もさぼっちゃいましたね。

面白い気づきや新しい試みもあって、書きたいことはたくさんあったのですが、やっぱり文章に書くという事が私にとっては未だに大ごとなんですよね。

もっと楽に考えて書くようにしたいなぁと思っています。

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さて、名古屋ツアーのゲート師匠の講話もとうとう最終日です。

最終日(22日)の師匠は、お話に熱がこもっていて、迫力がありました。

私たちに「起きなさーい!」と呼び掛けていたのだと思います。

私は寝起きが良くないからなあ…まだいい夢見ていたい…もう少し寝ていたいなあ…

と思っているのかな。

 

(以下、講話書き起こし)

 

…さあ、そして、この私を目覚めさせるという勉強、ブッダとなるというこの勉強。

これが簡単そうに見えて難しいのです。

 

私たちは幼いころから長い間にわたってある教育というものを与えられてきました。多くの価値観や、社会的な通念、道徳的観念、そのようなものが私たちの遺伝因子の中にきちんとはまっているわけです。ですからこういうような状況を自分が受け入れているという事は本当に大変なんです。ですから目覚めるという事は、自覚するという事は本当に大きな事件なのです。

 

どのように例えたらいいかというと、その方法しか説明しようがないのですが…

「現実に対する否定」です。

「現実は夢である」

「幻想である」

だから昔の目覚めた人たちは「夢から覚めろ、目覚めろ!」といいます。

皆さん夢の中で、多くの出来事を経験することが出来ます。夢の中で人殺しもし、殺される直前まで行ったりもする。私が怒りに満ちて何かを追いかけることもあり、また、誰かに追われることもあります。悪い夢を見るとリアルな感覚を受けます。夢の中にもかかわらず冷や汗をかき、起きた後もまだ冷や汗をかいています。その余韻がすごく自分の中に残るでしょ?

「本当に夢の中で怖い事ひどいことが起こったよ!」

「私を苦しめたよ。本当に大変だった。」

しかし、起きてみれば、自分が目覚めてみれば、そのリアルな出来事は夢に過ぎなかったのです。

 

では…本当に夢にリアリティがありました。

ホントに恐ろしい人が追いかけてきて私を苦しめました。私は夢の中で怒りを抑えることが出来なかった。あまりにも怒りに駆られて、相手を刀で殺し続けました。

また、夢の中で、相手がとても美しい存在だった。私は夢の中で深い愛情にあふれ、これが永遠であるようにと祈りました。この瞬間がいつまでも続くように。しかし目覚めてみれば、夢でした。

さあ、夢の中に登場する「恐れ」「愛」「憤怒」これは皆さん、実在したのでしょうか?

夢は存在しましたが、現実に戻ってみたらそれは夢に過ぎなかったという事です。

じゃあ皆さん、ある人が皆さんを捕まえて、自分が前の日に見た悪夢についてずっと語ります。

「ほんとに恐ろしい奴だったんだよ。」

「本当に憎たらしい奴だったんだ。」

「ああ、あの人に自分は惚れ惚れしたよ。」

それを聞いて、

「ああ、そうなんだ。だけど、それは夢だよ。」

 

皆さん、本当はね、皆さんが肉体を離れると、その肉体を離れる瞬間、この現実は霊魂の観点から言ったら、本当に遠い日の夢のように感じます。

ここにおける波乱万丈の記憶、約百年ほどのこの波乱万丈の人生が、肉体を離れた瞬間に、一夜の夢のように感じるのです。

ずっと続けて何かが行われるという事はないのです。

皆さん、悪夢を見ると、その日一日、とても深く記憶に残っています。その次の日まで残っているかもしれない。何日間か、時間を過ぎても、記憶が残っている人もいます。

しかしそれは「夢である」という記憶を持っているにすぎません。

どんなに長い間、自分の記憶として持っていたとしても、それは夢としての記憶であるように、皆さんが生きていた80年90年といった人生は、肉体を離れた瞬間、夢となってしまうのです、皆さん。

これが現実であり、真実なのです。

 

じゃあ、皆さん。(もしかしたら)80年90年も生きられないかも知れない。今、今日死んでしまう人もいるかもしれないのです。

自分たちが計画立てて生きてきた人生が、人生が30年40年として記憶されるのではなく、私たちが一夜の夢を見るように、たった一つの夢として記憶されるという事なのです。

何十年もの人生が、たった一つの記憶に過ぎなくなるのです。

皆さん、これは事実であり現実です。皆さんが認めようが認めまいがそれは事実です。皆さんが死を受け入れようが受け入れまいが皆さんは死ななければならないように。

「それは違うと思います」というどのような反論をしたとしても、死は避けては通れないように、皆さんの人生が一夜の夢に過ぎないという真実が変わることはないのです。

この事実、現実に対して、皆さんはよく考えてみるべきです。

 

(中略)

 

皆さん夢を見るとき、自分の意識がなくなるでしょ。夢の中でもそのままのしっかりとした意識を保って夢に入っていくという人はいないでしょ。

皆さん方はしていないから分からないだろうけれども、実はそれも可能なんですよ。24時間、夢の中にはまり込まずに、ずっと目覚めた意識でいるという事は出来ます。

とにかく皆さんは寝た時、ある瞬間に意識がなくなるでしょ。それはほんの一時なんですよ。

寝たら夢が始まるように、皆さんが肉体を離れたら、天国では、ちょっとの間意識を失って、また目覚めるのです。そうするとまた別の意識活動が始まるのです。

それこそが霊的な世界です。

しかし90%の人たちは、自分が死んだという事実に気が付きません。また、死んだという事を受け入れたとしても、

「え?私、死んじゃったわけ?」

「私、本当に死んじゃったのかしら?」

そのような考えを少しの間していますが、生きていた時のような「死という概念」を受け入れることはありません。

なぜなら、生きている間には、「死」というものはすべての事が終わってしまう事である、何も分からないし全てが暗闇だ、死ねばそれまで…と、そのようにずっと学び続けてきました。

そのように理解をしてきましたし、皆さん方が(死を)もっと深く知ろうとせずに、その概念をそのまま受け入れてきたがために、私に、今、意識活動があって、考えが起こってくるのですから、死んだという概念を当然受け入れることが出来ません。

 

それで、肉体を離れた霊魂に、

「あなたは死んだんですよ」と言うと…

(例えば)今皆さんに、「これは本当は夢なんだよ。夢を見ているだけなんだ。」

(と言っても)皆さんはその言葉を受け入れることが出来ますか?

つねったら痛いし、飲むこともできれば感じることもできる。

見えるし、聞こえるし、考えることもできるのに、どうして私が死んだといえるんだ?

これは扇子でしょ?扇子。これがどうして夢なんだ?

そのように反応するでしょ?

皆さん方が本気で、皆さん方の現実を冷徹に直視すれば、

これを夢と認識し、新たな自覚の意識を持つという事は難しい事ではありません。

しかし、習慣、固定観念、強迫観念、それから抜け出すということがとても大変なのです。

 

そこで、皆さん方は、そういうことを知りつつ、数千回、多い人は数万回、ずっと転生を繰り返し続けているのです。

そこから抜け出る道は、徹底してこの現実を直視し、生まれて死ぬこと、ここに対して自らがもっと現実的に感じてみることなのです。

生と死について、もっとしっかりと考える必要があります。

生きるとは何か、死とは何か?

死とはいつ私におこることなのか?

それは私にいかなる結果をもたらすか?

であれば、死がいついかなる状態で私に来るかわからないのに、

生きている間に私は何をするべきなのか?

 

皆さん方、寝る前に自分の現実というものをきちんと置いておいて、しっかりそれを見つめ、探究する必要があるという事です。

そうしてこそ、皆さん方はそこから抜け出ることが出来るのです。

 

皆さん方がきちんと見つめて、探究したときに、皆さん方が目覚め始めるのです。

 

「ああ、私は~のように生きるべきなんだ。」

「生きている間に、これをするべきなんだ。」

そういう明確な価値観が生じるがために、その明確な価値観をもって、完全に違った人生を生きるべきなのです。

 

しかしその人生は、まず「否定」から始まるという事なのです。

すなわち、現実的に持っている自分の観念や価値観、そういうようなものを思いっきり無視するしかないのです。(後略)

 

(書き起こし以上)

 

 

 

私自身、何か「いい事思いついた!」とひらめいたとしても、

大抵は、

「そんなことやる意味ないよ」

「めんどうだな」

「恥ずかしいよ…」

「そんなこと出来るわけがないよ」

「きっとうまくはいかない」

「今はお金がないから、いつかね!」

「子どもがいるから無理!」

など、心の中で色々な声が飛び交います。

これらの声が、師匠の言う「現実に持っている自分の観念や価値観」であり、これらを断固否定し、無視するところから始めてみるべきなのでしょうね。

 

実際、ちょっと勇気を出して小さなところからやってみると、

「あら、なんという事はなかったな」

「良く分からないけど、うまくいっちゃった!」

なんてことになったりもします。

もちろん、「失敗」に見える羽目にもなったりしますが、それは、「いい体験したな」と捉えれば、「失敗」もただの「体験」になりますし…(あとから、笑い話や武勇伝になったりもしますwww!)

「これは私の夢!」

このように現実をとらえることが出来たとき、これまでとは逆に、恐れなしにしっかりと自分の人生を創り出していけるのだと思います。

実践あるのみです(≧▽≦)!

 

 

やっぱり与えることと受け取ることは同じ!

今日から日曜日まで、娘の高校の学校祭が行われます。

今日は仮装パレードの日でした。

クラスごとに思い思いのテーマで仮装して、山車をもって市内を歩きます。

 

私は絶好の撮影ポイントで、娘のクラスが来るのを待っていました。

他のクラスの仮装も、見ていてとても楽しかったので、何枚も写真を撮っていました。

仮装した子供たちは、ぞろぞろと歩きながら、沿道の私たちに向かって「こんにちわ!」と元気に笑顔であいさつしながら次々と通り過ぎていきます。

見知らぬ私のようなおばさんにも、皆笑顔で挨拶してくれるので、なんだかとってもいい気分♡

私がカメラを構えていると、私に向かってあいさつしながら、

「撮影して!」

というそぶりで、ポーズをとってくれる女装した男の子がいました。

さわやかな挨拶、屈託のなさ、笑顔のかわいさに圧倒されて、私も嬉しくなって

「はい、チーズ!」

とシャッターを切ってしまいました。

「ありがとうございます!」とその子。

私は思わず「何年何組?」と聞くと、彼は「〇年〇組」と答えながら楽しそうに去っていきました。

こんな心の交流っていいなあ。

 

子どもたちは次から次へとやってきます。

私はアンパンマンのカビルンルンに扮した娘の姿もカメラにバッチリ納めて、仮装の子供たちがクラスの踊りを披露するパフォーマンス会場へと向かいました。

最近の子供たちはホントにダンスが上手!

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たくさんのお客さんに囲まれながら、笑顔でパフォーマンスを見せてくれる子どもたち。振り付けも衣装もみんな自分たちで準備するんだから、ホントすごいなあ、と感心してしまいます。

娘も楽しそうに踊っていたので、その姿を見ることが出来ただけで母は満足でした(≧▽≦)!

 

帰り道、ふっと

「さっき、写真を撮ってあげたあの男の子に、写真をあげたいなあ」

と、思いました。

「めんどうだな。」「知らない子だし必要ないでしょ?」

なんていう思いもよぎったのですが、

「あの知らない子に今日撮った写真をすぐに渡してびっくりさせたい!」

というアイディアに、自分自身がなんかワクワクしてしまったんです^^♪

すぐ近くにセブンイレブンがあったので、SDカードから2枚だけプリントアウトして、学校の事務の方にその子のクラスの先生に写真を渡してくれるようお願いしてきました。

 

 

たったそれだけの事なのに(無事にその子の手に渡ったかどうか、その子が喜んでくれたかどうかも定かではないのに)私の心の中は大満足!

ただの大きな自己満足なのに、心の中はHappyな気持ちで満たされていました。

私は彼に「喜び」をあげようと思って、思いを実行したと同時に、私はすでに「喜び」で満たされていました。

 

 

あ、昨日のコースのレッスンで言ってたことだ!

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レッスン108

「与えることと受け取ることは真実においては一つです。」

 

 

 

 

亜麻の花

昨日、JRの電車の中でTwitterを見ていて、こんなツイートを見つけたんです。

 

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亜麻の花か~!きれいだな~!でも、本物見たことないなあ。

見てみたいなあ~。今咲いているのかな?

行ってみる?明日は予定入ってないよ!

明日の天気は…?

「晴れ」!

これは行くしかない!

 

……という事で、行ってきました!当別町

今朝は晴れの予報なのに、雲が厚く垂れこめていて、どんより。

それでも、桜を見に行った時も聖霊さんが晴らしてくれた!だから大丈夫!

そんな気持ちで出かけました。

当別町は今週末に「第10回北海道亜麻まつりin当別」というお祭りが企画されていて、そのチラシに出ていた地図を頼りに亜麻畑を探しました。

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この地図によると、計4か所の亜麻畑があるようなのですが、街中よりも山の方がいいなあと思い、まずは地図の「青山地区」に行ってみることにしました。

意気揚々と行ったのですが、「ここだよなぁ・・・?」という場所には、田んぼと麦畑が広がっているだけで、青い花畑らしきものは見当たらず・・・。

行けども行けども、田んぼと麦・・・。

空もどんより、心もどんより・・・。

ちょっと残念・・・。

 

 

「さあ、まだ他の亜麻畑がある!3か所もあるよ!」

と気持ちを切り替えて、「東裏地区」の「篠津運河」沿いの畑を目指しました。

地図は碁盤の目になっていて、とても分かりやすそうなのですが、

実際は、ほぼ全部どこを見ても広い広い麦畑と田んぼで、何の目印も標識もなく、頼りのgoogle mapsも目的地表示の赤い印が、畑には付かない!

それでも何とか「このあたりだよなあ・・・」の場所に来てみたものの、青い花畑は見えなくて、泣きそうになりました。

来た道を引き返して・・・さらに進んで・・・進んで・・・

 

 

 

ありました~!!!

 

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やっと会えました。青い可憐な妖精。はじめまして。

 

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もう嬉しくて嬉しくて、この嬉しい気持ちを誰かと分かち合いたくて、YouTubeで初めてのLive配信もしてしまいました!

youtu.be

突然のLive配信だったのに、しかも、2分程度の短い時間だったのに、3・4名の方が同時に見て下さっていて、感動しました!

Liveって「同じ瞬間を共有できている!」という感覚が本当に嬉しいなと思いました。

 

そして、この青い空と、おひさまの光!

本当に頼りになる聖霊さんです!もう、感謝の気持ちしかありません!

ありがとうございました!

こんなに素敵なシチュエーションを提供してくれるなんて!

そして、少しのドキドキもありがとう!

ちょっと不安がらせて、こんなに素敵なものをプレゼントしてくれるなんて、聖霊さんはきっとプレイボーイに違いない(≧▽≦)!

今後ともどうぞよろしくお願いしますよ!聖霊さん!

 

 

あとから気づいたことでしたが、実は亜麻の花が満開の畑はここだけだったようです。

導きに感謝!感謝!です。

私は目で「青い花畑」を探していたので、「青山地区」の花が満開となっていない亜麻畑にはどうやら気づかなかったみたいなのです。帰り道で見た近くのもう一つの亜麻畑は花がまだまばらで、ただの草地のように見えました。

知らぬ間に、私の望んだ

「一番いい場所」

「(晴れる時間を見計らった)一番いい時間帯」

に連れて行ってもらえていたのです。

やはり、頼りになるのは

「色眼鏡の付いたエゴちゃんの思考や知覚」ではなくて

聖霊さんにおまかせ!の気持ち」なんだなあとあらためて思った一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

コースワークブック再開!

しばらくサボっていた「奇跡のコース」のワークブックを今朝から再開しました。

いつも香咲弥寿子さんの朗読を聴きながら学習しています。

https://youtu.be/E7cP9cT781w

今日のワークは今の私にとてもヒットしたので、ここで一部シェアしたいと思います。

 

(以下の訳はThere Is No Spoon さんからの

転載http://thereisnospoon.jp/

Lesson 107 - Truth will correct the errors in my mind
レッスン107「真理が私の心の中の誤りを修正してくれる」

1. What can correct illusions but the truth?
 真理以外の何が幻想を正すことができるというのでしょうか。

 And what are errors but illusions that remain unrecognized for what they are?
 そして、誤りとは単に、それが錯覚であると気づかれないままになっている幻想にほかならないのではないでしょうか。

 Where truth has entered errors disappear.
 真理が入ってくると、誤りはそこから消え去ります。

 They merely vanish, leaving not a trace by which to be remembered.
 誤りは単に消滅するだけで、思い出すことができるような痕跡を残すことなく去ってしまいます。

 They are gone because, without belief, they have no life.
 誤りは生命を持たないがゆえに、信じられることがなければ、消え去ってしまいます。

 And so they disappear to nothingness, returning whence they came.
 そのようにして、誤りはそれが生じた無へと戻って消え去ります。

 From dust to dust they come and go, for only truth remains.
 塵から塵へと、誤りは来ては去ってゆきます。というのは、ただ真理だけが変わらないものだからです。

(中略)
9. Truth will correct all errors in your mind which tell you you could be apart from Him.
 真理は、あなたに自分が聖霊から離れていることができると告げるあなたの心の中のあらゆる誤りを修正してくれます。

 You speak to Him today, and make your pledge to let His function be fulfilled through you.
 今日、聖霊に語りかけ、自分を通して聖霊の役割が果たされるようにすると誓約してください。

 To share His function is to share His joy.
 聖霊の役割を分かち合うことは、聖霊の喜びを分かち合うことです。

 His confidence is with you, as you say:
 次のように言えば、聖霊の確信があなたのものとなります。


Truth will correct all errors in my mind,
真理が私の心の中のすべての誤りを修正してくれる。

And I will rest in Him Who is my Self.
そうすれば、私は自分の大いなる自己である聖霊の中に安らぐことになる。


 Then let Him lead you gently to the truth, which will envelop you and give you peace so deep and tranquil that you will return to the familiar world reluctantly.
 それから、聖霊に、真理の下へとあなたを優しく導いてもらってください。真理は、あなたを包み込み、あなたにあまりに深く安らかな平安を与えてくれるので、あなたは慣れ親しんだ世界に戻りたくなくなることでしょう。


10. And yet you will be glad to look again upon this world.
 それでも、あなたは再びこの世界を見て嬉しくなるはずです。

 For you will bring with you the promise of the changes which the truth that goes with you will carry to the world.
 というのも、あなたと共に歩む真理がこの世界に様々な変化をもたらすという約束を、あなたは自分と一緒に持ち帰ることになるからです。

 They will increase with every gift you give of five small minutes, and the errors that surround the world will be corrected as you let them be corrected in your mind.
 この世界にもたらされる様々な変化は、あなたがたった5分の贈り物を捧げるたびに増えていき、そして、この世界を包囲していた誤りの数々は、あなたが自分の心の中で誤りが修正されるようにするにつれて、修正されていきます。

(転載以上)

 

今日のワークの

「誤りとは単に、それが錯覚であると気づかれないままになっている幻想にほかならないのではないでしょうか。」

「真理が私の心の中のすべての誤りを修正してくれる。そうすれば、私は自分の大いなる自己である聖霊の中に安らぐことになる。」

という言葉に安心させられる私がいて、朝からとても良い気分でした。

ゲート師匠もいつも、

「これは幻想に過ぎない」

「「私」の現住所を常に自覚しよう」

と言っています。ここで言う「私」と「大いなる自己」「聖霊」は同じなのでしょう。

「私」の居場所を真実の元におけば、この世界は幻想です。その事に常に気付いていて、幻想世界を楽しむ事にします。

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